く駄目だと宣告して、さて、宿の主婦の方を向いて、「ところで小母さん、あんたは時間を無駄にすることはないから、さっそくこの人のために松の木の棺を誂《あつ》らえときなさい。この人には槲《かし》の棺ではちと高価《たか》すぎるからね。」アカーキイ・アカーキエウィッチは、こうした自分にとって致命的な言葉を耳にしただろうか。もし耳にしたとしても、それが彼に激動を与えたかどうか、己れの薄命な生涯を歎き悲しんだかどうか、それはまったく不明である。なぜなら、彼はずっと高熱にうかされて夢幻の境を彷徨していたからである。彼の眼前には次から次へと奇怪な幻覚がひっきりなしに現われた。自分はペトローヴィッチに会って、泥棒をつかまえる罠のついた外套を注文しているらしい。その泥棒どもがしょっちゅう寝台の下にかくれているような気がするので、彼はひっきりなしに主婦を呼んでは、蒲団の下にまで泥棒が一人いるから曳きずり出してくれと強請《せが》んだりする。そうかと思うと、ちゃんと新調の外套があるのに、何だって古い半纏《はんてん》なんか眼の前に吊るしておくんだと訊ねたり、そうかと思うと、自分が勅任官の前に立って当然の叱責を受けているものと思い込み、「悪うございました、閣下」などと言ったりするが、はては、この上もなく恐しい言葉づかいで、聞くに堪えないような毒舌を揮ったりするので、ついぞこれまで彼の口からそんな言葉を聞いたことのない主婦の老婆は、あまつさえそうした言葉が【閣下】という敬語のすぐ後に続いて発せられるのに驚いて、十字を切ったほどであった。それからさきはまったくたわいもないことを口走るのみで、何のことやら、さっぱりわからなかったが、そうした支離滅裂な言葉や思想が、相も変らず例の外套を中心にぐるぐると廻っていたということだけは確かである。ついに哀れなアカーキイ・アカーキエウィッチは息を引きとった。彼の部屋にも所持品にも封印はされなかった。それというのも第一には相続人がなかったし、第二に遺産といってもほとんど取るに足らなかったからである。すなわち、鵞ペンが一束に、まだ白紙のままの公用紙が一帖、半靴下が三足、ズボンからちぎれたぼたんが二つ三つ、それに読者諸君が先刻御承知の【半纏《はんてん》】――それだけであった。こうした品が残らず何人の手に渡ったかは知るよしもない。いや、正直なところ、この物語の作者には、そん
前へ
次へ
全39ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平井 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング