えることもあったが、これも、それではあまりにこちらから身を低うすることになりはせぬか、なれなれしすぎはすまいか、こんなことをしては自分の沽券《こけん》にかかわりはせぬか、などといった杞憂《きゆう》に阻まれてしまう。そうしたとりこし苦労のために、つい尻込みをして、彼は相も変らず、いつも沈黙を守り続け、ただ時たま何かきわめて短い言葉をはさむくらいにすぎなかった。そのために彼は退屈きわまる人間という称号をかち得たのであった。わがアカーキイ・アカーキエウィッチのやって行ったのは、じつにこうした有力者の許《もと》であった。しかもそのやって行った時たるや、相手の有力者にとっては好都合な時であったが、彼自身にとってはもっとも具合の悪い、不首尾きわまる時であった。折しもくだんの有力者は自分の書斎で、つい最近に上京したばかりの、古い友人であり、かつ幼な馴染であって、ここ数年来互いに相見なかった男とすこぶる愉快に話し込んでいた。ちょうどそういうところへ、バシマチキンなる人が来訪したと取次がれたのである。彼は吐き出すように「どんな男だ?」と尋ねた。「どこかの役人です。」との答えである。「ああ! 待たせておけ、今は忙がしいんだから。」と有力者は言った。ここで断わっておかなければならないのは、この有力者がまるで根も葉もない嘘をついたということである。なあに、彼は忙しくも何ともなかったのである。彼はもうとっくにその友人と何もかも語りつくして、さっきから時どき話を途切らしては、かなり長く黙り込み、ただその合間々々に、軽くお互いの膝をたたきながら、「というわけか、イワン・アブラーモヴィッチ!」――「そういうわけさ、ステパン・ワルラーモヴィッチ!」などと繰り返しているにすぎなかった。しかし、それにもかかわらず、彼が役人を待たせておくように命じたのは、もうずっと前に官途を退いて、田舎の家に引っこんでいた友人に、自分のところでは役人がどんなに長く玄関で待たされるかを見せびらかそうがためであった。とうとう話の種もつき、その上いい加減あきるほど黙り込んで、折たたみ式のもたれのついたしごく具合のいい安楽椅子に深々と腰かけたまま、悠々と葉巻を一本くゆらしてから、やっと、今急に思い出したような顔をして、ちょうど報告のための書類をもって扉口に立っていた秘書に、こう言ったものである。「うん、そうそう、誰か役人が来て、
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