。こんな噂まである。なんでもある九等官は、とある小さな局長に任命されると早速自分だけの部屋を仕切って、それを【官房】と名づけ、扉口には赤襟にモールつきの服を着せた案内係を置いて、来訪者のあるごとに、いちいち把手《とって》をとって扉をあけさせたものである。しかもその【官房】たるや、ありきたりの書物机《かきものづくえ》が一脚、どうにか無理やりに置けるくらいのものであったとのことである。さて、くだんの有力者の態度や習慣は、なかなかどっしりして、威風堂々たるものであったが、しかしいささかこうるさいところがあった。彼の主義方式の根柢は主として厳格という点にあった。【厳格、厳格、また厳格。】と彼はいつも口癖のように言っていたが、その最後の言葉を結ぶ時には、きまって相手の顔をひどく意味深長に眺めやるのであった。とはいえ、これはなんら謂《いわ》れのあるところではなかった。なぜなら、この事務局の全機構を形成している十人ばかりの官吏は、それでなくてさえいい加減|怖気《おぞけ》をふるっていたからである。彼らは遠くからでも彼の姿を見かけると、ただちに事務の手をやめ、直立不動の姿勢で、長官が部屋を通り去るのを待ったものである。彼が下僚を相手にとり交わす日常の会話も、いかにも厳格な調子で、ほとんどつぎの三、四句に限られていた。【言語道断ではないか? いったい誰と話しているのかわかっとるのか? 君の前にいるのを誰だと思う?】そうはいっても、根は善良な人間で、同僚ともよく、人にも親切であった。ただ勅任官という地位がすっかり彼を混乱させてしまったのである。勅任官の位を授かると、彼は妙にまごついて、ひどく脱線してしまい、まったく自分をどうしたらいいのか、さっぱり見当がつかなかったのである。たまたま、同輩の者と一緒のときはまだしも、決して申し分のない、なかなかしっかりした人柄で、あらゆる点において如才のない人間でさえあったが、いったん自分より一級でも下の連中の仲間へ入ったが最後、彼はまるで手も足も出なくなって、しんねりむっつりと黙りこんでしまう。そのようすが、彼自身でもこれとはくらべものにならないほど愉快に時を過すことができそうなものをと感じているだけになおさら憐憫《れんびん》の情をそそるのであった。時には彼の目にも、何か面白そうな集《つど》いや談笑の仲間入りがしたくてたまらないという激しい欲望のほの見
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