たのだが、それは無駄なことだつた。火酒はまるで蕁麻《いらくさ》のやうに彼の舌を刺して、苦蓬《にがよもぎ》の汁よりも苦く思はれた。それで彼はその大コップを地べたへ叩きつけた。『悲観することあねえぞ、哥薩克!』さういふ胴間声が彼の頭のうへで鳴り響いた。振りかへつて見ると、そこにゐるのはバサウリュークだ! いやはや! なんといふ醜顔《つら》ぢやらう! 髪の毛はごはごはして、眼の玉がまるで牡牛のそれのやうぢや。『お主が何に困つてをるのか、それはちやんと知つとるぞ。そうら、これだらう!』さう言ひながら、彼は悪魔のやうな薄笑ひを浮かべて、帯のわきに下げてゐた革の財布をジャラジャラ鳴らした。ペトゥローはぶるつと身顫ひをした。『へ、へ、へ! どうだ、よく光るぢやらうが!』彼は金貨を手のひらへザラザラと移しながら喚いた。『へ、へ、へ! どうだ、好い音がするぢやらうが! かういふお銭《ぜぜ》をたんまり儲けるのに、仕事といへばたんだ一つきりさ!』『悪魔!』と、ペトゥローが躍起になつて叫んだ。『それをやらせてくれい! おらはどんなことでもして退けるだから!』そこで手うちが交はされた。『見ろ、ペトゥロー、お主はちやうどいい時に間にあつただぞ、明日《あした》はイワン・クパーラぢや! 一年のうち今夜ひと晩だけ、蕨《わらび》に花が咲くのぢや。この期《ご》をはづしちやあならんぞ! おれは今夜、真夜中に熊ヶ谷でお主を待つてゐてやる。』
 恐らく、この日ペトゥルーシャが夜になるのを待ち焦れたほどには、鶏も女房《かみさん》が餌を持つて来てくれる時刻を待ちあぐねはしなかつたらう。刻一刻に怺《こら》へ性がなくなつて、なん度となく戸外《おもて》へ出ては木立の影が少しでも長くならないかと、そればかり眺め眺めしたものぢや。なんといふ日の長いことだらう? どうやら、天帝の定めた一日が、どこかへ尻尾を置き忘れて来たものとみえる。だが、やうやくのことで太陽の姿がなくなつた。空は一方だけが赤らんでゐる。やがてそれも薄暗くなつて来た。野原はひとしほ肌寒くなつて、だんだん夕闇がせまり、そろそろ黄昏《たそが》れそめる。やれやれ、やつとのことで! 彼は飛びたつ思ひで支度もそこそこに、足もとに用心しながら、欝蒼と生ひ繁つた森の中を辿つて、熊ヶ谷と呼ぶ奥深い谷底へと降りて行つた。バサウリュークはもうちやんと、そこに待つてゐた。鼻をつままれても分らないやうな真の闇だ。二人は手に手をとつて、じめじめした沼地をば、深々と生ひはびこつた荊棘《いばら》にひつ掻かれたり、殆んど一足ごとにつまづいたりしながら、前へ前へと進んで行つた。すると、やがてのことに平らなところへ出た。ペトゥローはあたりを見まはしたが、まだ一度も来た覚えのないところだつた。そこまで来るとバサウリュークは立ちどまつた。
「お主の眼の前に三つの丘があるぢやらうが? この三つの丘にいろんな草の花が咲くのぢや。だが、お主がそれを一つでも折り取るのは禁物ぢやぞ。ただ蕨に花が咲いたら、すぐさまそれを掴むのぢや、そしてお主のうしろでたとへどんなことが起らうとも、振りかへつてはならんのぢやぞ。」
 ペトゥローは何か訊ねようと思つたが……見れば――バサウリュークの姿はもうそこには無かつた。彼は三つの丘の傍へ近よつた。いつたいどこに花があるのだらう? なんにも眼には見えぬ。野草があたり一面に黒々と生ひ繁つて、まるであたりを塞いでしまつてゐるばかりだ。ところが、やがてのことに天の一角で、ピカリと一つ稲妻が閃めいた。と、そのとたんに、彼の眼前には一面の花畠が現出して、どれもこれも珍らしい、つひぞ見たこともないやうな花で一杯になつた。だが、蕨はまだ、ただの葉つぱだけぢやつた。ペトゥローは肚のなかで少し怪しみながら両の手を腰につがへたまま、その前に立ちつくした。
※[#始め二重括弧、1−2−54]こんなものあ、別に珍らしくもなんともないぢやないか? 一日に十ぺんだつてこんな草なら見てゐらあな、何が不思議なもんか? あの悪魔づらめが、ひとを嘲弄《からか》ひくさるのぢやないかしらん?※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 ところが、見てゐると――小さな花の蕾が一つ、だんだん赤らんで来るではないか――さながら生きもののやうに蠢めきながら。まつたくこれは不思議だ! 蠢めきながら見る見る大きくなつて、まるで燠《おき》のやうに赤くなつた。そして小さい星がきらめくやうに火花が散つたかと思ふと何かパチつと音がした――と、彼の眼前には一輪の花がぱつと開いて、さながら火のやうにぐるりの花々を照らしてゐるのだ。
※[#始め二重括弧、1−2−54]さあ、今だ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう思つて、ペトゥローは片手をのばした。見れば、彼のうしろからも、やはりその花をめがけて何百といふ、毛むくじやらな無数の手がさしのばされた。そして彼のうしろでは何者かがあちこちと駈けまはつてゐるらしい気配がする。彼は眼をつぶつて、その茎をむしり取つたが、首尾よくその花は彼の手に入つた。あたりが急にしいんと静まりかへつた。すると、木の切り株のうへに坐つて、まるで死人のやうに色蒼ざめたバサウリュークの姿が現はれた。彼は指いつぽん動かさなかつた。両の眼は何ものか、ただ彼にだけ見えるらしいものにむかつてじつと凝らされてゐた。口は半ばほころびてゐたが、なんの応《いら》へもない。あたりには蠅の羽音ひとつ聞えぬ。いやはや物凄いのなんのといつたら!……ところがその時、さつと一陣の風が起つて、ペトゥローは肚の底からぞうつとした。そして、草がさやさやとそよぎ出して、さながら花が互ひに銀鈴を振るやうな細い細い声でささやきはじめたやうに思はれると、樹々は怒号するやうな物凄い音をたてて鳴りはためいた……。と、バサウリュークの顔は急に生気を帯びて、その両眼がぎらりと光つた。『やつと鬼婆《ヤガ》めが帰りをつたな!』さう彼は、歯の隙間からつぶやいた。『よいかペトゥロー、今すぐにお主の前へ凄い別嬪が姿を見せるから、そいつの※[#「口+云」、第3水準1−14−87]ひつけどほりにするのぢやぞ、さもないと、取りかへしのつかぬことになるのぢや!』さう言つて彼が、節くれだつた木の杖で荊棘《いばら》のしげみを押し分けると、二人の面前には、昔噺にあるとほりの*鶏の脚で立つた小舎が現はれた。バサウリュークが拳をあげてその戸を叩くと、壁がゆらゆらと揺めいた。そして大きな黒い犬が一匹飛びだしたかと思ふと、ぎやつと叫びざま、猫の形に変つて、二人の方へまともに躍りかかつて来た。『おいおい、腹を立てなさんなよ、鬼婆《ばあ》さん!』さう言つてからバサウリュークは、堅気な人間にはとても聞きずてにすることの出来ないやうな、いかがはしい言葉をつけ足した。すると、今度は猫ではなくて、まるで焼林檎のやうに皺くちやな顔をして、全身が弓のやうに曲つた老婆の姿にかはつた。その鼻と頤とが、ちやうどあの胡桃を割る鋏子《やつとこ》のやうな恰好に向ひあつてゐた。※[#始め二重括弧、1−2−54]大変な別嬪ぢやわい!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう思ひながら、ペトゥローは背筋にぞうつと寒けを覚えた。妖女《ウェーヂマ》は彼の手からくだんの花をひつたくると、身をかがめて長いあひだそれに怪しげな水をふりかけながら、何か口のなかで呪文を呟やいてゐた。その口からは火花が飛び、唇にはぶくぶくと泡が吹きだした。『投げな!』と、老婆は花を彼に返しながら、言つた。ペトゥローがそれを投げた。と、なんと不思議なこともあるもので、花はまつすぐに地面へは落ちないで、しばらくのあひだ、闇のなかにまるで火の球のやうに浮いたまま、小舟かなんぞのやうに空中を漂つてゐたが、やがて少しづつ低くなつて、最後にかなり遠くの方へ落ちたので、それは罌粟粒よりも小さい星のやうに、やうやくそれと見分けられるくらゐであつた。『あすこだよ!』さう、うつろな嗄がれ声で老婆がいふと、バサウリュークは犂《すき》を渡しながら、『あすこを掘るのぢや、ペトゥロー、あすこにやあな、お主やコールジュが夢にも見たことのないやうな黄金《かね》がたんまり埋まつてをるのぢや。』と告げた。ペトゥローは手に唾をして犂をとると、それをぐつと土へ踏みこんでは掘りおこし、踏みこんでは掘りかへし、何度も何度も繰りかへした……。と、何か固いものに触つた!……犂がカチつと音を立てて、もうそれ以上は通らぬ。その時、彼の眼にははつきりと、鉄板《てつ》を著せた小型の櫃がうつつた。で、彼がすんでのことに手を掛けてそれを持ちあげようとすると、櫃は地の底へずるずるとめりこんでゆくではないか。そして彼のうしろでは、どちらかといへば蛇の匍ふ音に似たやうな笑ひ声がした。『駄目なこつちやよ、お主が人間の血を手に入れるまでは、その黄金《かね》を見る訳にはいかんのぢや!』さう言つて妖女《ウェーヂマ》は、彼の前へ白い敷布《シーツ》にくるまれた六つぐらゐの子供をつれて来て、その首を刎ねよといふ相図をした。ペトゥローはその場に立ちすくんでしまつた。たとへどんなことがあらうとも、人間の、ましてや罪もない子供の首を斬り落すなどといふことがどうして出来るものか! 彼は赫つとなつて子供の頭に巻かれた敷布《シーツ》を引きはいだ。と、どうだらう? 彼の眼の前に立つてゐるのはイワーシではないか。哀れな子供はいたいけな両手を十字に組んで、頭べを垂れてゐるのであつた……。狂人のやうになつたペトゥローは、短刀を振りかぶつて妖女《ウェーヂマ》にをどりかかりざま、まさにその手を打ちおろさうとした……。
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
鶏の脚で立つた小舎 露西亜の昔噺に出て来る鬼婆の棲家は、森の中に鶏の脚で立つてをることになつてゐる。
[#ここで字下げ終わり]
「おぬしは、あの娘を手に入れるために、どんな約束をしたのぢや?……」さう呶鳴るバサウリュークの声が、まるで鉄砲だまのやうにうしろから彼の五体に突きとほつた。妖女《ウェーヂマ》が片足あげて、とんと地面を踏んだ。すると、青い焔が地のなかからたちのぼつて、地下全体がかつと明るくなり、まるで水晶ででも出来てゐるやうに、大地の底にあるものが何もかも、手に取るやうに見え出した。彼等の立つてゐる地面の真下には、櫃や鍋にいれた金貨だの宝石だのが、うづたかく埋蔵されてゐるのだつた。ペトゥローの両の眼は燃えるやうに輝やいて……理智の鏡も曇らされた……。まるで正気を失つたもののやうに彼は短刀を掴んだ。無辜の血汐が彼の両眼にはねかかつた……。悪魔の高笑ひが四方からどつとあがつた。醜悪きはまる化生のものが彼の眼前を群れをなして駈けまはつた。妖女《ウェーヂマ》は首を刎ねられた屍を両手にかかへこんで、狼のやうにその血をすするのだつた……。ペトゥローの頭のなかでは何もかもがぐるぐると※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた! 彼はその場から力の限り逃げだした。彼の眼の前はすべてが真紅の光りにつつまれて見えた。すべての樹々が血を浴びて赫つと燃えながら呻いてゐるやうに思はれた。空も真赤に灼けただれて揺らめいてゐた……。稲妻のやうな火の玉が眼の中できらめいた。ぐつたりと、精も根も尽き果てて彼は自分の荒ら屋へ駈けこむなり、藁束のやうに地面《ぢべた》へぶつ倒れてしまつた。そのまま死のやうな睡魔が彼を捉へてしまつた。
 二日二夜のあひだ、ペトゥローは一度も目を醒さずにぐつすり眠りとほした。三日目になつてやつと夢から醒めた彼は、長いあひだ自分の家の隅々を眺めまはした。何ごとかを思ひ出さうとして躍起になつたが、どうしても思ひ出されない。彼の記憶は、まるで老いぼれた吝ん坊の衣嚢《かくし》と同じで、これつぱかしも絞りだすことが出来ないのぢや。ふと、伸びをした時、彼は足もとで何かザラザラと音がするのを耳にとめた。見れば、金貨の袋が二つもあるではないか。やつと、この時、夢のやうに、自分が何か宝を捜してゐたことと、森の中でただ一人、何か怖ろしい目に会つてゐたことを思ひ出した……。だが、
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