うした贈物を手にしながら、うすうす怪訝《けげん》に思ふのぢやつた――ひよつとこれは悪魔の手から出た代物ではないかしらとな。わしの祖父《ぢぢい》の親身の叔母が、そのころ今のオポシュニャンスカヤ街道で居酒屋をやつてゐたが、そこでよく、このバサウリューク(その魔性の男は、さういふ名前でとほつてゐた)が散財をしたさうで、叔母の話したことには、この世にある限りのどんな幸福《しあはせ》と引換でも、この男から贈物などもらふのは真平御免だつたといふのぢや。だが、さうかといつて受け取らんわけにもゆかぬ――その男が針のやうな眉毛をしかめて、見るからに足のすくみさうな眼つきで額越しに睨まへると、誰だつてぞうつとして怯気《おぢけ》を震つてしまつたものぢや。ところがまた、それを受けとらうものなら、次ぎの晩には頭に角のある、そいつの仲間が沼地からお客に押しかけて来るのぢや。そして、頸飾を掛けてをれば頸をしめる、指輪をはめてをれば指に喰ひつく、リボンを結んでをれば編髪《くみがみ》をひつぱるといふ始末でな。さうなつた暁には、それこそ、かうした贈物は誠にもつて迷惑千万なのぢや! しかも災難なことには――それを振りすてることも出来ないのぢや。たとへば水中めがけて投げこんだにもせよ、その魔性の指輪なり頸飾なりは、水面を泳いで、すぐに又もとの手もとへ戻つて来をるのぢや。
その村にお寺が一つあつたが、わしの記憶では、多分パンテレイ聖人を祠《まつ》つた御堂だつたと思ふ。当時その寺に、今は亡きアファナーシイ神父が住まつてをられた。神父は、バサウリュークが復活祭にさへお寺へ顔出しをせぬのを知ると、少し窘めて彼に懺悔をさせようと思ひついたものぢや。ところが、どうしてどうして! 命に別状のなかつたのがせめてもの仕合せといふものでな。『へん、和尚さん!』と、そいつは喰つてかかつたのぢや。『他人《ひと》のことにかれこれ口出しをする暇に、われと我が身のことに気をつけたがよからうぜ、さもないと、煮えつきの蜜飯《クチャ》でその山羊の頸みたいな咽喉をふさいでこますから!』かういふ罰あたりにかかつては、なんともはや仕方のないものでな。アファナーシイ神父はただひと言、このバサウリュークとつきあひをするやうな者は、誰れ彼れなしに、基督教会と人類全体の仇敵である加特力の信者と看做しますぞ、と断言したきりぢやつた。
さて、この村でコールジュといふ通称でとほつてゐた哥薩克の家に、※[#始め二重括弧、1−2−54]親無しペトゥロー※[#終わり二重括弧、1−2−55]といふ渾名で呼ばれてゐる作男がひとりゐた。多分、だれ一人その男の両親を知つてゐる者がなかつたので、そんな渾名がつけられたのだらう。もつとも信徒総代の話によれば、その両親は、彼の生まれた翌る年、黒死病《ペスト》で亡くなつたといふのぢやが、わしの祖父の叔母はそれを本当にしないで、一所懸命に、この哀れなペトゥローの身にとつては去年の雪ほどにも用のない肉親を捜し出してやらうとて、いろいろ骨折つたものぢや。彼女の話では、ペトゥローの父親は今、ザポロージェにゐるが、前に土耳古人の捕虜になつて、むごたらしい艱難辛苦を嘗めた末、やうやく宦官の姿に変装して脱走して来たといふのぢや。だが眉の黒い娘つ子や新造たちにとつては、彼の肉親のことなどはどうでもよかつた。彼女たちはひたすら、彼に新調の波蘭服《ジュパーン》を著せ、赤い帯をしめさせ、てつぺんだけが粋に青い仔羊皮《アストラハン》の黒い帽子をかぶらせて、腰に土耳古風のサーベルをつり、片手には鞭を、片手には美しい象眼いりの煙管《パイプ》を持たせたものなら、とてもとても当時の若者といふ若者などは、その足もとへもよりつかれたものではなからうなどと、言ひそやしてゐた。しかし不幸にして、貧しいペトゥローには、天にも晴《はれ》にも掛換のない一枚看板の鼠いろの長上衣《スヰートカ》より他には持ちあはせがなく、それも、気のきいた猶太人の衣嚢《かくし》の中にある金貨の数よりも多く穴があいてゐるといつた代物であつた。だが、それはまだしも大した災難ではなかつた。災難なのは、コールジュ老人に一粒種の娘があつて、それが素敵もない別嬪で、諸君にも恐らくこんなのは、なかなかおいそれとは見つかるものでないと思はれるほどの美人だつたことで。亡き祖父の叔母がよく話したことぢやが――ところで女にとつては、御承知のやうに、差しさはりがあつたら御免なされぢやが、他人《ひと》のことを美人だなどと言ふくらゐなら、いつそ悪魔と接吻でもする方がよつぽど安易《らく》なはずぢやが――その哥薩克娘《カザーチカ》のふくよかな頬が見るからに瑞々《みづみづ》しくて、あのこよなく美しい薔薇いろの罌粟《けし》が神授《めぐみ》の朝露で沐浴《ゆあみ》ををへて鮮やかに燃えながら、きちんと行儀よく枝葉をそろへて、今し昇つたばかりの日輪に向つて美装を誇つてゐる時のやうに、あでやかなら、またその眉は、ちやうど当節の娘たちが、あの、箱をかついで村々を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて来る大露西亜人《モスカーリ》から、十字架につけたり、頸飾にする古銭を通すために買ふ、あの黒紐のやうに匂やかに、あだかもその明眸をさし覗くやうに、なだらかに弧を描き、小夜鳴鳥《ナイチンゲール》の唄声をもらすために造られたかとも思はれるその可憐な口許は、それを見るたんびに当時の若者どもに思はず舌舐ずりをさせたもので、烏羽玉の黒髪は若亜麻《わかあさ》のやうにしなやかに、(その頃はまだ、この辺の娘たちのあひだには、派手な色あひの美しい細リボンを編《く》みこんだ幾つもの小さい編髪にするならはしがなかつたので)房々とした捲毛が、金絲で刺繍をした波蘭婦人服《クントゥーシュ》の上へ、ゆたかに垂れてゐたさうぢや。へつ! このすつかり霜をいただいたわしが脳天《どたま》の古林と、まるで眼の上の瘤みたいに片わきに鎮坐まします山の神の婆あの前ではあるが、こんな娘を思ふ存ぶん接吻することができないほどなら、おお主よ、わしはもう頌歌席でハレルヤを唱へさせて貰ひませんでも結構ぢや。それはさて、かうして若者と娘つ子とが互ひに朝夕顔を見あはせて暮してゐた日には……それがどんな結末になるかは、火を見るより明らかな話で、まだ黎明《しののめ》の頃ほひ、赤長靴の踵鉄《そこがね》が目につけばそこには必らずピドールカが情人のペトゥルーシャと甘いささやきを交はしてゐたわけぢや。しかし、つひぞそれまでコールジュが邪慳なこころを起すやうなことはなかつたが、ある時――これこそ他ならぬ悪魔のそそのかしに違ひないのぢやが――ペトゥルーシャのやつ、碌々あたりに注意もはらはず、あとさきの考へもなしに、家の入口で哥薩克娘《カザーチカ》に出会ひざま、その薔薇色の唇に、いはば無我夢中で接吻したのぢや。ちやうどその時、同じ悪魔めが、ええつ、ほんに畜生め、霊験いやちこな十字架の夢でも見くさるがええ!――あらうことか、あの耄碌親爺に入口の扉を開けさせをつたのぢや。コールジュ老人は戸につかまつて棒だちになつたまま、開いた口も塞がらなかつた。その忌々しい接吻の音で彼の耳はすつかり聾になつてしまつたかとさへ思はれたのぢや。それは、まだ鉄砲も火薬もない当時のこととて、百姓どもが壁を叩いて野禽《とり》を追ふのに使つた、木槌の音よりも大きく彼の耳に響いたものぢや。
我れに返るとともに、彼は、壁に懸つてゐた父祖伝来の鞭をおつ取りざま、哀れなペトゥローの背筋をめがけてピシリと一つ撃ちおろさうとしたが、ちやうどその時、どこからかピドールカの弟で六つになるイワーシが駈けこんで来るなり、仰天して、いたいけな両の手で父親の脚にしがみついて、『お父ちやん、お父ちやん! ペトゥルーシャを殴《ぶ》つちやあ、いけないようつ!』と喚き出しをつたのぢや。どうしやうがあるものか? 父親の心だとて木石ではない筈ぢや。彼は鞭をもとの壁に懸けて、やをら相手を扉の外へしよびき出すなり、『向後この家でおれの眼にとまつて見ろ、うんにや、そればかりか、うろうろと窓の下へでも近づいて見ろ、その時こそ、いいか、ペトゥロー、おらがテレンチイ・コールジュである限り、誓つて、汝《うぬ》のその黒い髭と、それからこの豚尾が――ほうら、もう耳を二たまはりも巻けるわい――これがどちらも汝《うぬ》のど頭《たま》から消えてなくなるんだぞ!』かう言ひざま、彼はすばやく拳をかためて、ペトゥローの項《うなじ》をがんと一つ喰らはせた。ペトゥルーシャはくらくらつと目が眩んで、その場へばつたり倒れてしまつた。とんだ接吻をして退けたものぢや! 恋人同士は切ない悲哀に胸とざされてしまつた。ところがコールジュの許へはさる波蘭人で、ぴんと口髭を生やして、金絲で刺繍《ぬひ》をした衣服を身にまとひ、長剣《サーベル》をつり、拍車をつけた男が、まるで寺男のタラースが毎日、会堂のなかを持ちまはる喜捨袋みたいに、衣嚢《かくし》をジャラジャラいはせながら、足しげく通ひだしたといふ噂さが、専ら村ぢゆうの評判になつた。けだし小意気な娘をもつ父親のところへ、しげしげと出入をする手合の下心は見えすいてゐる。さて或る日のこと、ピドールカは涙にかきくれながら、両の腕に弟のイワーシを抱きしめて、かう言つたのぢや。『可愛いあたしのイワーシや! 好い子だからね、大急ぎでペトゥルーシャのところまで一と走り行つて来ておくれでないか。そしてあのひとにさう言つておくれ。あたし、あのひとの鳶いろのお眼《めめ》が恋しくて、あのひとの白いお顔が接吻したいのだけれど、でも前の世からの因縁でそれも叶はないのだつてね。あついあつい涙で、ぐつしより濡らした手拭も一筋や二筋ぢやない。あたしやせつなくつて、なんだか胸がしめつけられるやうなの。親身のお父さんでさへ、あたしには仇敵《あだがたき》もおんなしだわ――好きでもない波蘭人のとこなんかへ無理やりお嫁に行かせようとするんだもの。あのひとにさう言つておくれ、うちではもう婚礼の支度にかかつてゐるのだけれど、あたしの婚礼には賑やかな音楽などはなくつて、八絃琴《コーブザ》や笛の代りに補祭がお経をあげるのだつて、ね。そしてあたしは花聟といつしよに踊るのではなく、棺に入れて担《にな》つてゆかれるのだつて。あたしのお嫁にゆくところは暗い暗いお家なんだつて!――そして、屋根のうへには煙突の代りに楓の木の十字架が立つんだつて!』
あどけない子供がピドールカのことづてを片言で繰りかへすのを聴きながら、ペトゥローはまるで化石にでもなつたやうにその場に棒立ちになつてしまつた。『ええ、情けない、おれはまたクリミヤか土耳古へでも押しわたつて、金銀をうんと分捕つて、しこたま身代を拵らへてから、お前のとこへ帰つて来ようと思つてゐたのになあ、おれの別嬪さん。それもやつぱり駄目か。どこまでも、おれたちふたりは意地の悪い運命の眼《まなこ》にみこまれてしまつたのだ。おれの方にだつてな、いとしい恋人さん、婚礼は挙げられるよ――おれの婚礼にやあ、坊さんがお経をあげるかはりに黒い鴉がカアカア啼くだらう。おれの家はだだつ広い野原で、蒼黒い雨雲が屋根の代りになるのだよ。鷲めがおれの鳶いろの眼球《めだま》をつつき、哥薩克|男子《をのこ》のこの骨は雨露《あめつゆ》に洗はれて、やがては旋風の力でひからびてしまふことだらう。だがおれはどうしたといふんだ? だれを恨み、だれに泣きごとをならべることがあらう? 所詮は神がかういふ運命に定められたのだ! ええ、もう身も心も破滅してしまへばいいんだ!』さう言ふと、そのまま彼は居酒屋をさしてまつしぐらに飛んで行つたといふ。
祖父《ぢぢい》の叔母は、ペトゥルーシャが自分の酒場へ、それも堅気な人たちなら朝の勤行に詣つてゐる時分に、ひよつこり姿を現はしたのを見てちよつと驚ろいたが、彼が半樽の余も入りさうな大コップで焼酎《シウーハ》を注文した時には、まるで目のくり玉がとびだしさうなほど、相手の顔を見つめたものぢやさうな。この可哀さうな男はどうかしてその悲しみを払ひ落さうと思つ
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