そく帽子を掴んで戸外《おもて》へ飛び出さずにゐられないといつた、あんな手合とは、てんで比べものにもなんにもなつたものぢやない。今もまざまざと思ひ出すのは、亡くなつた老母がまだ存命ちゆうの頃のことでな――戸外《そと》では酷寒《マローズ》がぴしぴしと音を立てて、自宅《うち》の狭い窓をこちこちに凍てつけるやうな冬の夜長の頃、母は麻梳《グレーベニ》の前で長い長い絲を手繰りだしながら、片方の足で揺籃《ゆりかご》をゆすぶりゆすぶり、子守唄をうたつてゐたつけが、その唄声が今もわしの耳の中で聞えてをりますわい。油燈《カガニェツ》はなんぞに怯えでもしたやうに顫へてパチパチと燃えながら、うちの中のわしたちを照らしてゐる。紡錘《つむ》はビイビイと唸つてゐる。そこでわしたち子供一同は一塊りに寄りたかつて、老いこんでもう五年の余も煖炉《ペチカ》から下りて来ない祖父《ぢぢい》の話に聴き入つたものぢや。したが、遠い遠い昔の物語や、*ザポロージェ人の遠征、波蘭人の話、さては*ポドゥコーワだの、*ポルトラ・コジューハだの、*サガイダーチヌイだのの武勇談、さういつた風な昔語りよりは、どちらかと言へば、何かかう、古めかしい怪異物語の方にわたしたちはずつと牽きつけられたものぢや。さういふ妖怪変化の話を聴くと、いつも躯《からだ》ぢゆうがぞみぞみして、身の毛もよだつ思ひだつた。さもなければ、さうした怪談の怖さがたたつて日の暮れあひからは、眼にうつるものが皆、あやしげな化生のものの姿に見えたものぢや。どうかした拍子で夜分、うちを空けでもすることがあると、必らずそのあひだにあの世から迷つて来た亡者がわが寝床にもぐりこんでゐはせぬかと、無性に気づかはれてならなんだ。いや、まつたくの話が、自分の寝台の枕もとにおいてある長上衣《スヰートカ》を遠くから見て、てつきり悪魔がうづくまつてゐるのぢやないかと思つたことも再々のことでな、それが嘘なら、こんな話を二度と聞かせるをりのない方がましなくらゐぢや。祖父の物語でいちばん肝腎要《かんじんかなめ》なところは、祖父が生涯に一度も嘘をつかなかつたといふ点で、祖父が物語るかぎり、それはまさしくこの世にあつた正真正銘まことの話に違ひなかつたのぢや。
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ザポロージェ人 ドニェープルの急流にある島嶼をザポロージェと言ひ、そこにカザック軍の本営(セーチ)があつたので、当時この本営附のカザックをザポロージェ人と呼んだのである。
ポドゥコーワ 土耳古人に殺されたモルダ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ヤの太守の弟だと詐称し、カザックを利用して一時モルダ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ヤの王位に即いたが、後ワルシャワで捕へられ、一五七八年に処刑された人。
ポルトラ・コジューハ これは『皮衣一枚半』といふ意味の、如何にも小露西亜人らしい滑稽きはまる渾名であるが、果して実在の人物か仮装の人か不明なるも、恐らく波蘭に対するウクライナ解放運動に活躍せし英雄ならん。
サガイダーチヌイ(ピョートル・コナシェー※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ) 一六〇六年よりザポロージェ・コザックの総帥となり、土耳古やクリミヤを攻めて勝利を得、波蘭王ウラヂスラフ四世の莫斯科進撃に味方した人。一六二二年歿。
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 では、これから祖父の怪異譚のひとつをお話しすることにしよう。よく公事《くじ》の代書などを勤めてをるやうな御仁で、今様の通用文はすらすらと読めもするが、ありふれた経文の一つもあてがはれうものなら、さあ頓と一字一句だつて会得ができず、その癖、何かといへば人を嘲るやうに白い歯を剥き出して笑ふだけが能といつた、まことにお悧巧な方々を見受けるもので、さういふ手合には何を話しても、ただもう、にやにや笑つてゐるばかりでな。実に、時世時勢《ときよじせい》とでもいふのか、何ひとつ真《ま》に受けるといふことが無くなつた! 近い話が――これあもう、天地神明に誓つての話ぢやが――あなた方にしてからが、ほんたうにはなさるまいけれど、ある時、ちよつと*妖女《ウェーヂマ》の話をしたところ、どうぢやらう? ひどい悪党もあつたもので、妖女《ウェーヂマ》を信じをらぬのぢや! お蔭でこの年になるまでには、こちとらが嗅煙草を嗅ぐよりもたやすく懺悔僧にむかつて嘘八百をならべ立てるやうな不心得な外道にもよく出会つたものぢやが、そのやうな輩《やから》でも、妖女《ウェーヂマ》の話が出れば、鶴亀々々と十字を切つたものぢや。したが、そんな手合には勝手にさせておくがええ……口にするのも穢らはしい……。何もかれこれ言ふがものはないぢやて。
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妖女《ウェーヂマ》 悪魔に身をまかせて神通力を得た女、人間に害悪を加へ
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