なかへ、底をうへにして、伏せるやうにして入れる。それから呪文をとなへてから、その鉢の水を一匙だけ病人に呑ませるのぢや。(原作者註)
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 かくてその夏もすぎた。哥薩克たちの多くは秋の刈り入れをすました。そして生れつき放縦な多くの哥薩克たちはまたもや戦地へと出征した。鴨の群れはまだ土地《ところ》の沼地に群れてゐたが、鷦鷯《みそさざい》はもう影も見せなかつた。曠野《ステッピ》は一面に赤くなつた。そこここに穀類の禾堆《いなむら》が、ちやうど哥薩克の帽子のやうに野づらに点々と連なつてゐた。時をり村道を、柴や薪をつんだ荷馬車が通つてゆくのが眼についた。大地はいよいよ固くなり、ところどころに凍《い》てが染みとほつた。やがて空から雪がチラチラと落ちはじめ、木々の枝は兎の毛のやうな霜で飾られた。晴れた極寒の日には優雅な波蘭貴族よろしくの姿をした胸の赤い鷽《うそ》が餌を曳つぱりながら雪の上を歩きまはり、子供らはでつかい槌を持つて氷の上を走りまはつて、木の球を追つかけた。一方、彼等の父親たちは楽々と煖炉《ペチカ》のうへに寝そべつてゐたが、時をり、吸ひつけた煙管をくはへたまま戸外《そと》へ出て来ては、いかにも素晴らしい大寒日和をさんざんに褒めののしつたり、または入口の土間で、寝かしてあつた穀物に風を通したり搗いたりするのぢやつた。やがて雪が解けはじめ、梭魚《かます》が尾で氷を砕いた。だが、ペトゥローの容態には依然として変りがなく、時と共にいよいよ気むづかしさがつのる一方だつた。足もとに金貨の袋を置いたまま、鎖にでも繋がれたやうに、家の真中に坐つてゐた。髪はぼうぼうと伸び放題で、まるで野育ちのやうに、見るからに怖ろしい形相になつて、絶えず一つのことに思ひを凝らして、何事かを思ひ浮かべようと一心になりながら、それが思ひ出せぬのに焦れたり、怒つたりした。時々、暴々しく席を蹴つて立ちあがると、両手を打ち振り打ち振り、何ものかを捉まへようとでもするやうに、じつと眼を凝らすことがあつた。唇は、何かずつと前に忘れてしまつた言葉を、どうかして口へ出さうとしてあせるやうに、ぴくぴくするのだが――やはり又じつと動かなくなる……。狂暴の発作が襲つてくると、まるで正体もなく歯がみをして、われとわが手に咬みついたり、苛立ちまぎれに髪の毛を引きむしつたりするが、やがてそれが鎮まると、さながら夢うつつのやうにばつたり倒れてしまふ。それから又しても囘想に耽りはじめて、再び狂暴になり、更に懊悩するのだつた。何といふ怖ろしい天罰だらう? ピドールカはまるで生きた心地もしなかつた。最初のほどはひとり家にゐるのが怖ろしかつたが、しまひには、可哀さうに、さうした悲しみにも馴れて来た。だが以前のピドールカの面影は跡形もなくなつた。頬のいろざしも微笑も影をひそめて、容色は衰ろへ、影は薄れて、美しい眼も泣き枯らしてしまつた。一度、さる人が彼女を憐れに思つて、熊ヶ谷に棲んでゐる巫女《みこ》のもとへ行つてみたらとすすめた。その巫女はこの世にある限りの、どんな病気でもよく癒《なほ》すといふので、大変な評判だつた。そこで彼女はいよいよそれを最後の手段にもと、思ひきつて出かけて行つて、いろいろと言葉をつくして、その老婆を伴つて家へ帰つて来た。それは折しもイワン・クパーラの前夜の宵のことだつた。ペトゥローは正体もなく腰掛のうへにぶつ倒れてゐたので、その新来の客にはまるで気がつかなかつた。ところが、やがて少しづつ頭をもたげると、相手の顔をまじまじと穴のあくほど眺めた。と、不意に、まるで断頭台のうへに立たされたやうに、からだぢゆうががたがた顫へだして、髪の毛がさつと逆立つた……。そして彼は、ピドールカがひやりとしたほど物凄い声をあげて笑ひだした。『思ひ出したぞ、思ひ出したぞ!』さう彼は、こをどりをして喚きざま、矢庭に斧を振りあげて、力まかせに老婆をめがけて、はつしとばかり、投げつけた。斧の刃が三寸ばかりも、樫の板戸へ、丁と打ちこまれた。と、老婆の姿はいつの間にか消え失せて、白いシャツを著た七つばかりの子供が頭べをつつまれて家の中ほどに立つてゐる……。敷布《シーツ》が落ちた。『イワーシ!』とピドールカが叫んで駈け寄つた。すると幻影《まぼろし》は足の先から頭の天辺まで、全身血まみれになつて、家ぢゆうを赤い光りで照らした……。びつくり仰天したピドールカは入口の土間へ逃げ出した。しかし僅かに正気を取りもどすと共に、良人の身を案じて引つ返さうとしたが、時すでに遅かつた! 眼の前に戸がぴつたり閉されて、とても彼女の手では開けられさうにもなかつた。人々が駈けつけて、戸をどんどん叩いた。戸は外れた。だが、内部《なか》はもぬけの殻だつた! 家ぢゆうに煙が立ちこめて、ただ、まんなかのペトゥルーシャの立つてゐた
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