そく帽子を掴んで戸外《おもて》へ飛び出さずにゐられないといつた、あんな手合とは、てんで比べものにもなんにもなつたものぢやない。今もまざまざと思ひ出すのは、亡くなつた老母がまだ存命ちゆうの頃のことでな――戸外《そと》では酷寒《マローズ》がぴしぴしと音を立てて、自宅《うち》の狭い窓をこちこちに凍てつけるやうな冬の夜長の頃、母は麻梳《グレーベニ》の前で長い長い絲を手繰りだしながら、片方の足で揺籃《ゆりかご》をゆすぶりゆすぶり、子守唄をうたつてゐたつけが、その唄声が今もわしの耳の中で聞えてをりますわい。油燈《カガニェツ》はなんぞに怯えでもしたやうに顫へてパチパチと燃えながら、うちの中のわしたちを照らしてゐる。紡錘《つむ》はビイビイと唸つてゐる。そこでわしたち子供一同は一塊りに寄りたかつて、老いこんでもう五年の余も煖炉《ペチカ》から下りて来ない祖父《ぢぢい》の話に聴き入つたものぢや。したが、遠い遠い昔の物語や、*ザポロージェ人の遠征、波蘭人の話、さては*ポドゥコーワだの、*ポルトラ・コジューハだの、*サガイダーチヌイだのの武勇談、さういつた風な昔語りよりは、どちらかと言へば、何かかう、古めかしい怪異物語の方にわたしたちはずつと牽きつけられたものぢや。さういふ妖怪変化の話を聴くと、いつも躯《からだ》ぢゆうがぞみぞみして、身の毛もよだつ思ひだつた。さもなければ、さうした怪談の怖さがたたつて日の暮れあひからは、眼にうつるものが皆、あやしげな化生のものの姿に見えたものぢや。どうかした拍子で夜分、うちを空けでもすることがあると、必らずそのあひだにあの世から迷つて来た亡者がわが寝床にもぐりこんでゐはせぬかと、無性に気づかはれてならなんだ。いや、まつたくの話が、自分の寝台の枕もとにおいてある長上衣《スヰートカ》を遠くから見て、てつきり悪魔がうづくまつてゐるのぢやないかと思つたことも再々のことでな、それが嘘なら、こんな話を二度と聞かせるをりのない方がましなくらゐぢや。祖父の物語でいちばん肝腎要《かんじんかなめ》なところは、祖父が生涯に一度も嘘をつかなかつたといふ点で、祖父が物語るかぎり、それはまさしくこの世にあつた正真正銘まことの話に違ひなかつたのぢや。
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ザポロージェ人 ドニェープルの急流にある島嶼をザポロージェと言ひ、そこにカザック軍の本営(セー
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