たけ投げだしたつて構やしねえぞ。だが、前には悪魔が坐つてやがる!』どつといふ笑ひ声が四方から起つた。しかし、この思ひがけない挨拶は、のつそりのつそり歩を進めてゐる亭主の、粧《めか》したてたその配偶《つれあひ》には、あんまり嬉しくなかつた。女房《かみさん》の赤い頬は火のやうに赫つと燃え立つて、取つておきの悪罵がこの不届きな若者の頭から浴せかけられた。
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プショール河 ドニェープルの一支流。
スヰートカ 小露西亜人の用ゐる長上衣で、上から腰に帯を緊める。
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「何だい、この碌でなしの出来そこない野郎め、咽喉でも詰まらせてくたばつてしまやがれ! 汝《てめえ》の親爺のど頭に壺でもぶつかりやあいい。氷に滑つてころびくさるがいいんだ、忌々しい外道めが! 地獄へおちて鬼に髯でも焼かれやあがれ、くそつ!」
「どうだい、あの毒づくことは!」と、若者は女房《かみさん》の顔に眼をみはりながら、思ひがけなく手厳しい矢継ばやの応酬にいささか辟易した形で、「あの海千山千の妖女《ウェーヂマ》の舌は、あんなことを言つて、あれでちつとも痛くはならねえのかなあ!」
「なに、海千山千だと!……」さう言つて、年増の別嬪は喰つてかかつた。「この罰あたりめが! 顔でも洗つて出直して来やあがれ! しやうのない破落戸《ごろつき》野郎め! 汝《てめえ》のお袋を見たことはないが、どうせ碌でなしに違ひない。親爺も碌でなしなら、叔母も碌でなしにきまつてるだ! くそつ、海千山千なんて吐かしやあがつて!……何だい、まだ乳臭い二歳野郎の癖に……。」
 その時、荷馬車がちやうど橋を渡りきつてしまつたので、その言葉尻はもう聞き取れなかつたが、若者はそれなり鳧をつけてしまふのが業腹《ごふはら》だつたと見えて、よくも考へないで咄嗟に泥土をひと塊りつかみあげるなり、それを女房《かみさん》のうしろから投げつけた。それがまた思ひがけなく、うまく命中して、新らしい更紗の頭巾帽《アチーポック》がすつかり泥だらけになつたので、無茶な乱暴者たちの哄笑はまたひとしほ大きくなつた。肥つちよのめかしやは赫つといきりたつたが、しかし荷馬車はその時もうよほど遠く距たつてゐたので、女房《かみさん》はその腹癒に罪もない継娘や、のそのそ歩いてゐる亭主に当り散らした。だが亭主の方は、かうした悶著《もんちやく》にはもう疾の昔から馴れつこになつてゐたので、依怙地に黙りこくつて、いきり立つ女房の取りのぼせた言葉にはまるで取り合はなかつた。それでも女房《かみさん》の性懲りもない舌の根は、彼等が目ざして来た市《まち》の近くの、古馴染で教父《なづけおや》に当つてゐるツイブーリャといふ哥薩克の家へ到着するまで、ぶつぶつと小やみもなく口の中で呟やきどほしだつた。この家の人々と久しぶりに対面して、暫らくその不快な出来ごとを頭から払ひのけた一行は、定期市《ヤールマルカ》の取沙汰などをしながら、長い道中の後でひと休みした。

      二

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いつたいこの定期市《ヤールマルカ》に何ひとつ無いといふ品があるだらうか! 車輪《くるま》に硝子に樹脂《タール》に煙草、帯革、玉葱、そのほか百姓道具が一式……これでは財布に三十両あつても、市《いち》の品ひと通り買ふことは出来まい。
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[#地から3字上げ]――小露西亜喜劇より――

 諸君は多分、どこかで滝のおちる音を遠くから聞かれたことがあるだらう、あたりは轟々たる水音に震駭されて、不思議な、はつきりしない響きの交錯が旋風のやうに身に迫るのを。実にかの全群集が一つの厖大な怪物となり、その胴体のすべてを以つて広場や狭い街々を蠢きつつ、叫び、鳴り、はためく田舎の定期市《ヤールマルカ》の渦巻のなかで、一瞬間われわれを捉へるのは、その同じ感じではなからうか? 喧騒と怒号、牛や羊や豚の啼き声――それらのすべてが混淆して一つの調子外れな音響となるのだ。去勢牛、袋詰、乾草、ジプシイ、皿小鉢、百姓女、薬味麺麭、帽子――すべてがけばけばしく、五彩燦爛として、乱脈に、うようよと累なりあひ、入り乱れて、ぱつと眼の前へ押し迫る。声とりどりの話声が互ひに消しあつて、この音響の洪水からは一語として拾ひあげられ、救ひだされる言葉はなく、一句として明瞭に発せられる叫びはなく、ただ商人《あきんど》どもの手を拍つ音が市場の四方八方から聞えるだけである。荷車が毀され、鉄金具が鳴り、地面へ投げられる板がばたんばたんと轟ろいて、眩暈《めまひ》を起した頭には方角も何も分らなくなつてしまふのだ。くだんの旅の百姓は、もう長いこと、娘といつしよに、さうした人波のなかに揉まれてゐた。彼は、こちらの荷車に近よるかと思へば、あちらの荷車に手をか
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