あしどりのせゐでもない。さうした敬意の払はれる理由が知りたければ、眼を少し上へあげさへすればよい。荷車の上には丸顔の美しい娘がひとり坐つてゐた。黒いなだらかな三日月眉は澄みきつた栗色の眼の上にもたげられ、薔薇いろの唇には屈託のない微笑が浮かび、頭べにまとはれた赤や青のリボンは、長い編髪《くみがみ》や野花の小束と共に、彼女の蠱惑的な頭べの上に、華やかな王冠のやうに落ちついてゐた。何もかもが彼女の心を惹きつけるらしく、あらゆるものが彼女には珍らしく、目あたらしさうで……その美しい二つの眸は絶え間なく、次ぎから次ぎへと馳せうつつた。どうしてまた夢中にならずにゐられよう! 初めての定期市《ヤールマルカ》ゆきなのに! 十八娘の生まれて初めての定期市《ヤールマルカ》ゆきなのに!……しかし、彼女がどんなに父親にせがんで同行を納得させたかは、行き交ふ人々のうち誰ひとり知つてゐる者がない。もつとも父親は、根性まがりの継母さへゐなかつたら、二つ返辞で聴き入れたことだらうが、彼はまるで、永年のあひだこき使はれた挙句のはてに、お払ひ箱になるために、現に曳かれてゆく耄碌馬《まうろくうま》の手綱を自分が掴んでゐると同様に、すつかりその後添の女房の手で尻尾を押へられてしまつてゐたのだ。そのやかましやの女房《かみさん》といふのは……。しかしわれわれはその女房《かみさん》が現在この荷馬車のてつぺんに乗つかつてゐることをつい胴忘れしてゐた。その女房《かみさん》は、ちやうど、貂の毛皮のやうに、色こそ赤いが、一面に植毛の施こされた、しやれた青い毛織の短衣《コフタ》の下に、将棋盤みたいな市松模様の、立派な毛織下着《プラフタ》を着こみ、更紗模様の頭巾帽《アチーポック》をかぶつてゐる。それが彼女のでつぷりした赤ら顔に一種独特のいかつさを添へて、何かかうひどく不気味で異様な風貌に見えたので、誰しも愕ろきの眼を、急いで陽気な娘の顔へと移さずにはゐられなかつた。
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寛袴《シャロワールイ》 土耳古風の寛闊なズボンで、我が国の山袴、かるさんに類するもの。
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 この一行の行手には早くも*プショール河が見えだして、まだ遠くから、清涼な河風がもう頬を撫でて、それが堪へがたい酷暑の後でひとしほと身に浸みるやうであつた。無造作にばら撒かれたやうに、草地の上に突つ立つた黒筐柳《くろはこやなぎ》や白樺や白楊などの、明暗の青葉を通して、冷気を帯びた、火のやうな閃光がキラキラ輝やきだすと、美女のやうな流れが白銀《しろがね》の胸廓を燦然と露はして、その上には樹々の青葉が捲毛のやうに艶《いろ》めかしく垂れてゐた。まばゆいばかりに美しい額や、百合の花かとも見まがふ両の肩や、波うつて垂れてゐる亜麻いろの頭髪《かみ》にかざされた大理石のやうな頸をば妬ましげにうつす鏡の前で、恍惚として驕りあがつた放恣な美女が、果《はて》しない気紛れにその衣裳を次ぎ次ぎと取り棄てては著換へるやうに、この河は殆んど年ごとに、四辺の容子を変へ、新らしい水路を選んで、さまざまな目新らしい景色で己れを装ほふのである。幾列にもならんだ磨粉場《こなひきば》の水車が幅の広い河波を掬ひあげては、それを飛沫に砕き、水煙をあげて、苦もなく跳ね飛ばしながら、あたりを聾するばかりの騒音を立ててゐた。われらの馴染みの一行を乗せた荷馬車は、ちやうどこの時、橋に差しかかつて、彼等の眼前には、限りなく麗はしく、さながら無色透明な玻璃板のやうな、雄大な流れが展開したのである。空や、緑と青の森や、人々や、皿小鉢を積んだ荷馬車や、水車場――さうしたすべてのものが逆さまになつて、藍いろの美はしい深淵にうつつて、沈みもせずに、足を空ざまにして立つたり、歩いたりしてゐる。くだんの美人はこの絶景に見とれて、途々根気よく頬ばつてゐた向日葵《ひまはり》の種の殻を吐きだすことも打ち忘れてぼんやりと考へこんでしまつた。と、そのとき、不意に『おんや、娘つ子だよ!』といふ声が彼女の耳を驚ろかした。振りかへつて見ると、橋のうへに一群《ひとむれ》の若者がたたずんでゐて、その中でいちばん垢ぬけのしたみなりで、白い*長上衣《スヰートカ》に、鼠いろの羊毛皮《アストラハン》の帽子をかぶつた若者が、両手を腰につがへたまま傍若無人に、通り過ぎようとする一行を眺めてゐた。ゆくりなくも、その日焦のした、とはいへ愉悦に充ちあふれた顔と、こちらをじつと、見すかさうとでもしてゐさうな、燃えるやうな眼にぶつかると、さつきの声は屹度この人の声だつたなと思つて、彼女ははつと顔を伏せた。『素つ晴らしい娘つ子だぞ!』と、その白い長上衣《スヰートカ》の若者は、娘から眼もはなさずに言葉をつづけた。『彼女《あのこ》を接吻することが出来さへしたら、おれあ身代ありつ
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