ディカーニカ近郷夜話 前篇
VECHERA NA HUTORE BLIZ DIKANIKI
はしがき
ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli
平井肇訳
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)発行《だ》しをつて!
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小|冊子《ぼん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#始め二重括弧、1−2−54]
*:訳注記号
(底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)年に二度*ミルゴロドへ出むく方が
−−
『まつたくこれは奇態な本だ、※[#始め二重括弧、1−2−54]ディカーニカ近郷夜話※[#終わり二重括弧、1−2−55]か? いつたい※[#始め二重括弧、1−2−54]夜話※[#終わり二重括弧、1−2−55]とはなんだらう? 何処かの蜜蜂飼かなんかがこんなものを世間へ発行《だ》しをつて! お蔭さまなことだよ! 羽根ペンを拵らへるのにどれだけ鵞鳥を裸かにし、紙を漉くのにどれだけ襤褸くづをつかつたら堪能ができるのだらう! 貴賤の別なく猫や杓子までが見やう見真似で、やたら無性に墨汁へ指を突つこんでも突つこんでも、まだ足りないのだ! あげくの果てには、こんなどこの馬の骨とも分らない蜜蜂飼風情までが、柄にもなく変な野心をおこすのだ! まつたく、かう碌でもない活版刷の反古ばかり矢鱈に殖えた日には、一体これをなんの包み紙につかつたものやら、おいそれと考へつくことも出来やしない。』
かういつた横槍が飛び出すだらうとは、もう一と月も前から、ちやんと感づいてゐたことなんで! いや、まつたくこちとらのやうな田舎ものにとつては、この井の中から世間さまへ顔を突きだすといふことが――どうもはや!――よくある奴で、ちやうど立派な旦那がたのお邸へ戸惑ひして足をふんごんだのと頓とひとつで、人々がぐるりをとりまいて直ぐにからかひだす。それも奥むきの奉公人ででもあらうことか――ぼろぼろの服装《なり》をして裏庭で土いぢりでもしてゐさうな小穢ならしい小僧つ児までがいつしよになつて、四方八方から足を踏みならしながら、がなりだす。『何処へのこのこと迷ひこんで来やがるのだ? いつたい何をしに来やがつたんだ? さあ出て行け、このどん百姓めが、とつとと出てうせやあがれ!』つてんで……実際の話だが……。いや、何も言ふがものはない! まつたく、このわしにとつては、広い世間さまへ顔出しをするよりは、年に二度*ミルゴロドへ出むく方がよつぽど安易《らく》なんで、ところが、そのミルゴロドの地方裁判所の監督書記にも、あすこの偉い和尚にも、もう五年このかた頓と会はないやうな次第でな。――したが、いつたん顔を出したからには、泣いても笑つても一通りの弁疏《いひわけ》はしておかずばなるまいて。
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
ミルゴロド 小露西亜ポルタワ県下の小都会。ドニェープルの支流ホロール河の沿岸に位し、『ディカーニカ近郷夜話』に次いでゴーゴリが書いた著作集『ミルゴロド』は、この地名を採つて標題としたのである。
[#ここで字下げ終わり]
さて、親愛なる読者諸子よ、――いや飛んでもないことを申して御免なされ、(若しかしたら、こんな蜜蜂飼風情があなた方にむかつて、まるで自分の仲人《なかうど》か教父にでも話しかけるやうな、不躾けな物の言ひ方をするのをさぞかし御立腹になるかもしれませんが)――われわれの部落《むら》では昔からのならはしで、野良仕事がすつかり片づくといふと、待つてゐたとばかりに百姓たちは長の冬ぢゆう、のうのうと体を休めるために煖炉《ペチカ》の上へ這ひあがり、手前ども同業者仲間はめいめいの蜜蜂を暗い土窖《つちむろ》へかこふのぢや。その頃になると、もう空には一羽の鶴も姿を見せず、枝には梨の果《み》ひとつ残つてはゐない。が、その代り、夕方にさへなれば必らずどこか往還のはづれに灯影がさして、笑ひ声や唄声が遠くまでも聞え、*バラライカや、時には※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イオリンの音までが漂うて来る。がやがやといふ話声や騒々しい物音が伝はつて来る……。これがわれわれ仲間の所謂※[#始め二重括弧、1−2−54]夜会※[#終わり二重括弧、1−2−55]なんでな! まあ言つて見れば、あなた方の舞踏会に似たやうなものではあるが、さうかといつて、まるきり同じものだとも申しかねる。あなた方が舞踏会へお出かけになるのは、いはば足をふらふらさせたり、口に手をあてて、そつと欠伸をなさらうために他ならないが、われわれの方はさうではない。てんでに紡錘《つむ》や麻梳《あさこ
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平井 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング