つちやあ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
茲で叔母さんは、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチを一人のこしておいて、台所を覗きに立つて行つた。
だがこの時以来、彼女はひたすら一日も早く甥に妻帯させて、初孫の守をしたいものだと、ただ一|途《づ》にそのことばかり考へるやうになつた。彼女の頭には、あれやこれやと、ただ婚礼の支度のことばかりが折り重なり、目立つて何彼の用事に前よりも一層せはしなく駈けまはるやうになつた。とはいへ、さうしたことが好都合に運ぶどころか、却つて、悪結果を来すばかりであつた。時々|麺麭菓子《ピロージュノエ》を(彼女は大抵それを料理女に委せておかなかつた)拵らへながら、彼女は我れを忘れて、傍に小さい孫が菓子をねだつてゐるやうに空想して、うつかり美味《おいし》さうな処をちぎつてはさし出すのであつた。ところがその都度、番犬が得たり賢しとその美味《おいし》い麺麭菓子をぱつくりくはへては、ガツガツ言ひながら食つてしまふので、その物音に初めて我れに返つた叔母さんはいつも火掻棒で犬を打つたものだ。そのうへに叔母さんは、自分の大好きな慰みを止めてしまつて、狩猟《かり》にも出かけなくなつた。稀《たま》に出かけることがあつても、鷓鴣と間違へて烏を射つたりした。そんなことは、前にはつひぞなかつたことである。
それから四日ばかり経つと、納屋から半蓋馬車《ブリーチカ》が庭へ曳き出された。馭者のオメーリコ――彼は時には作男であり、時には夜番でもあつた――が、朝早くから鉄槌《かなづち》でカンカンと革を打ちつけながら、あとからあとから車輪の脂を舐めに来る犬どもを引つきりなしに追ひ立てた。それは正しく、かのアダムが乗用した半蓋馬車《ブリーチカ》そのものであつたことを読者に予め御披露しておく必要がある。で、万一、誰かが、アダムの用ゐた馬車が他にあるやうなことを言つても、それは真赤な嘘で、てつきりその馬車は偽物でなければならぬ。茲に全く不可解な一事は、この馬車がノアの洪水からどうして助かつたかといふことであるが、恐らくノアの箱船には、特別な置場があつたものに違ひない。この半蓋馬車《ブリーチカ》の恰好を如実に読者諸子に描写して御覧に入れることの出来ないのは甚だ残念である。言ふまでもなく、ワシリーサ・カシュパーロヴナにはこの馬車の構造が非常に気に入つてゐて、いつもこの旧式な馬車が流行遅れとして葬り去られることを口惜しがつた。この半蓋馬車《ブリーチカ》の形は少し傾いてゐて、右側が左側より余ほど高かつたが、それがまた彼女にひどく気に入つてゐた。といふのは、彼女の言ひ草では、一方からは背長《せたけ》の小柄な人が、他方からは大柄な人が乗るのに都合が好いといふのであつた。然もその馬車の内部と来ては、小柄な人なら五人、この叔母さんのやうな大柄な人でも三人は、裕に坐ることが出来た。
正午《ひる》ころ、一通り馬車の手入れが終ると、オメーリコは厩から、半蓋馬車《ブリーチカ》よりは幾らか年齢《としは》の若い三頭の馬を曳き出して、その偉大なる馬車に繋いだ。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが左側から、叔母さんが右側からそれに乗り込むと、馬車は動き出した。途中で出会つた百姓どもは、この立派な馬車を見ると、(叔母さんは滅多にこの馬車で出かけなかつたので)恭々しく立ち停つては、帽子を脱いで最敬礼をした。
二時間ばかりの後、馬車が玄関さきに停つた――いふまでもなくストルチェンコ家の玄関さきである。グリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは不在だつた。老婆が二人の令嬢と共に客を食堂へ迎へ入れた。叔母さんはさつさと大股に進み寄るなり、非常に素早く片方の足をにゆつと前へ踏み出して、声高らかに次ぎのやうな挨拶をのべた。
「奥様、かうして直々お目通りをして御機嫌を伺ふことの出来ましたのを何より喜ばしく存じます。それに、先だつてはまた、甥めが、お手厚い御歓待に預りまして、有難うございました。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチはそれを大変自慢に致してをります。時に、奥様のお宅の蕎麦の出来栄は大層お見事でございますこと――こちらへ上ります道すがら拝見いたして参りましたよ。いつたい一町歩から束《そく》にしてどの位お収穫《とり》になりますか、ひとつ承はり度う存じますが。」
この挨拶に次いで、先づ一同の接吻が交はされた。客間に通つてから、老主婦は初めて口を切つた。
「蕎麦のことはいつかうに存じませんので。さういふことはグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチに委せきりでございまして、もう妾は疾《とう》からその方のことには手出しをいたしません。それに出来もし
前へ
次へ
全18ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平井 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング