−7−83]ッチが仔羊の骨の髄をしやぶる音が何よりも騒々しかつた。
「時に、あれをお読みになりましたですか?」と、暫らくの間だまつてゐてから、例の馬車のやうな立衿からイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの方へ首を差し出しながら、イワン・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが訊ねた。「あの*※[#始め二重括弧、1−2−54]コロベイニコフの聖地巡礼記※[#終わり二重括弧、1−2−55]といふ書物を? 実にどうも、素晴らしく面白い本ですねえ! 今時ああした書物はからつきし出ませんね。あれは何年の出版だつたか、つい見落したのが残念ですよ。」
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コロベイニコフ 初め莫斯科の商人であつたが、一五八二年ヨハン四世(雷帝イワン)の命により、父帝の手にかかつて薨じたイワン皇子の冥福祈願のため、聖地アソスの山へ行き、一度帰国してから再び聖地巡拝に赴き、パレスティナから基督の霊柩模型を莫斯科へ携へ帰つた(一五九三年)。彼の著書といはれる、浩瀚な『聖地巡礼記』は、露西亜の宗教界に於て非常に有名なものであつた。
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 イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは書物の話が出たなと思ふと、てれかくしに、せつせとソースを自分の皿へよそひ始めた。
「実に驚ろくべきではありませんか、下賤な町人の身を以つて聖地を残らず巡つたのですからね。実に三千露里以上ですよ! 三千露里以上! 彼がパレスチナやエルサレムに行くことが出来たのは、一に上帝の御恵みに他なりませんて。」
「では、何ですか、その人は、」と、エルサレムのことを、よく従卒から聞かされてゐたイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが言つた。「その、エルサレムへも行つたとおつしやるので?」
「何のお話ですか、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ?」と、食卓の端からグリゴリイ[#「グリゴリイ」はママ]・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが口を挿んだ。
「私は、つまり、その、なんです、実にどうも、そんな遠い国々がこの世にあるのかと、さう申しただけなんです!」と、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが言つた。彼はこんなに長い、むつかしい文句を一気に言つてしまつたことに心から満足してゐた。
「その男の言ふことなんぞ真《ま》に受けてはいけませんよ、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ!」と、碌に相手のいふことも聴かないで、グリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが言つた。「みんな、口から出まかせですよ!」
 さうかうするうちに午餐は終つた。グリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、いつもの習慣《ならはし》で少し横になるために自室へ引きさがつた。で、お客は老主婦と二人の令嬢の案内で客間へ移つた。その部屋の卓子の上には、さつきウォツカを残しておいて食事に赴いた筈であつたのに、何かのからくりみたいに、今はそれにかはつて、あらゆる種類のジャムの皿や、西瓜だの、桜ん坊だの、胡瓜だのを鉢に盛つたのが、処せまくならべてあつた。
 万事にグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチのゐないことが目立つた。老主婦の口は一段と軽くなつて、誰も頼みもしないのに、自ら進んで、*パスチーラや乾梨の拵らへ方の秘訣をいろいろ打明けた。令嬢たちも談話の仲間いりをしたが、しかし二十五歳ぐらゐに見える姉娘より六つばかりも年下らしい、金髪の妹娘の方は沈黙がちであつた。
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パスチーラ 果実や漿果を砂糖蜜で煮とかし、型に入れて半ば固めたもの。
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 だが、イワン・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが誰よりもよく話したり、動きまはつたりした。今や誰も自分を貶したり混ぜつかへしたりする者のないことを確信した彼は、胡瓜に就いて論じたり、馬鈴薯の植ゑ方を説いたり、また昔は実に賢い人々があつた――たうてい今時の連中とは同日に談ずべくもない!――などと言ふかと思へば、日進月歩の勢ひでますます人智が進んで、実に巧妙極まる物が発明されるなどと感嘆する。一口に言へば、彼は心を浮き立たせるやうな雑談が何よりも好きで、しまひにはただ口にのぼすことの出来る限り矢鱈にしやべり散らすといつた類ひの人物であつた。話が厳粛敬虔な問題に触れる時には、イワン・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは一語々々の後で頷いては溜息をつくのだつた。農作上のこととなると、例の馬車のやうな立衿から首をぬつとも
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