、いつもこの旧式な馬車が流行遅れとして葬り去られることを口惜しがつた。この半蓋馬車《ブリーチカ》の形は少し傾いてゐて、右側が左側より余ほど高かつたが、それがまた彼女にひどく気に入つてゐた。といふのは、彼女の言ひ草では、一方からは背長《せたけ》の小柄な人が、他方からは大柄な人が乗るのに都合が好いといふのであつた。然もその馬車の内部と来ては、小柄な人なら五人、この叔母さんのやうな大柄な人でも三人は、裕に坐ることが出来た。
正午《ひる》ころ、一通り馬車の手入れが終ると、オメーリコは厩から、半蓋馬車《ブリーチカ》よりは幾らか年齢《としは》の若い三頭の馬を曳き出して、その偉大なる馬車に繋いだ。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが左側から、叔母さんが右側からそれに乗り込むと、馬車は動き出した。途中で出会つた百姓どもは、この立派な馬車を見ると、(叔母さんは滅多にこの馬車で出かけなかつたので)恭々しく立ち停つては、帽子を脱いで最敬礼をした。
二時間ばかりの後、馬車が玄関さきに停つた――いふまでもなくストルチェンコ家の玄関さきである。グリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは不在だつた。老婆が二人の令嬢と共に客を食堂へ迎へ入れた。叔母さんはさつさと大股に進み寄るなり、非常に素早く片方の足をにゆつと前へ踏み出して、声高らかに次ぎのやうな挨拶をのべた。
「奥様、かうして直々お目通りをして御機嫌を伺ふことの出来ましたのを何より喜ばしく存じます。それに、先だつてはまた、甥めが、お手厚い御歓待に預りまして、有難うございました。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチはそれを大変自慢に致してをります。時に、奥様のお宅の蕎麦の出来栄は大層お見事でございますこと――こちらへ上ります道すがら拝見いたして参りましたよ。いつたい一町歩から束《そく》にしてどの位お収穫《とり》になりますか、ひとつ承はり度う存じますが。」
この挨拶に次いで、先づ一同の接吻が交はされた。客間に通つてから、老主婦は初めて口を切つた。
「蕎麦のことはいつかうに存じませんので。さういふことはグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチに委せきりでございまして、もう妾は疾《とう》からその方のことには手出しをいたしません。それに出来もし
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