認ためにかかつた。カテリーナは寝棚《レジャンカ》に腰かけて、片足で揺籃をゆすりはじめた。ダニーロは坐つたまま、左の眼で運筆を見ながら、右の眼では窓の外に注意を払つてゐた。窓の外には、遠くの山々やドニェープルが、月光を受けて輝やいてをり、ドニェープルの彼方には森が青ずみ、上には晴れ渡つた夜空が仄かに見えてゐた。だが、ダニーロは、遥かなる空や青ずんだ森を嘆賞してゐるのではなかつた。彼は、突き出た岬に黒く浮かんだ古い城砦を眺めてゐたのである。彼の眼にはその城砦の狭い小窓からパッと灯りが映したやうに思はれた。だが、あたりはひつそりして何の変りもない。多分それは彼の気のせゐだつたのだらう。ただ下の方からドニェープルの騒音がぼんやり聞えるのと、束の間づつ喚び醒まされる波の音が次ぎ次ぎに三方から谺《こだま》して来るばかりである。ドニェープルは何ら狂奔することなく、老人のやうにくどくどと呟やいてゐるが、彼には見るもの聞くもの悉くが気に染まぬらしい。今や彼の周囲はすべてが変つてしまつた。ドニェープルはひそかに、沿岸の山や森や草原に怨恨をいだき、彼等に対する不平を黒海にむかつて訴へてゐるのである。
 と、
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