口で眼を拭きながら、自分の目の前に立つてゐる良人を、足の爪先から頭のてつぺんまで、しげしげと眺めながら言つた。「どんなに怖ろしい夢を見てゐたことでせう! ほんとにあたし、この胸が苦しくつて! おお!……あたし、もう死んでしまふのかと思ひましたわ……。」
「どんな夢を見たのだい? こんな夢ではなかつたのかい?」さう言つて、ブルリバーシュは自分の見て来たことを妻に物語つた。
「まあ、あなた、どうして御存じになつてるのですか?」かう、吃驚してカテリーナが訊ねた。「けれど、あなたがお話しになつたことで、あたしに分らないことが沢山ございますわ。だつて、あたしのお父さんがお母さんを殺したなんてことは、夢に見ませんでしたわ。そして死人のことなども見ませんでしたわ。ええ、ダニーロ、あなたの今お話しになつたとほりではありませんでしたわ。でも、なんてあたしのお父さんは怖ろしい人でせう!」
「お前が夢で見なかつたことの多いのは不思議ぢやないよ。お前は自分の魂が知つてゐることの十分の一も知らないでゐるのだから。知つてるかい、お前の親爺さんが邪宗門だといふことを? まだ去年のこと、波蘭人といつしよにクリミヤを攻めた時(まだその頃、俺はあの不信な国民と提携してゐたのだ)ブラツキイ修道院の僧院長《イグーメン》が(それはお前、聖《けだか》い人だつたよ)俺に話したつけ、邪宗門の輩《やから》はなんぴとの魂でも呼び出す妖術を知つてゐるつて。それに魂といふものは人間が眠つてゐる間ぢゆう自在に翔びまはるもので、大天使といつしよに神の高御座《たかみくら》のぐるりまでも翔びまはるといふのだ。俺には最初からお前の親爺さんの顔が、どうも気に喰はなかつた。もしお前の父があんな人間だと分つてゐたら、お前となぞ結婚するんぢやなかつた。俺はお前を棄てても、邪宗門の一族などと縁組をして、自分の魂に罪障を重ねるのではなかつたのに。」
「ダニーロ!」と、カテリーナは袖で顔を蔽うて涕きながら言つた。「どうして、あなたに対してあたしに罪がありますの? あたしがあなたを裏切つたとでもいふのでせうか、いとしい方? 何ぞあなたが御立腹になるやうなことをいたしましたでせうか? つひぞ一度だつて、あなたに良くない仕へ方をしたことがありませうか? あなたが賑やかな宴会からいい御機嫌でお帰りになるやうな時でも、つひぞ不服らしい言葉ひとこときいたこ
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