ディカーニカ近郷夜話 後篇
VECHERA NA HUTORE BLIZ DIKANIKI
降誕祭の前夜
NOCHI PERED RODJESTVOM
ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli
平井肇訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)讚仰歌《カリャードカ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|哥《カペイカ》銅貨型
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
★:自注(蜜蜂飼註)記号
(底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)楽しく★讚仰歌《カリャードカ》を流しまはつて
*:訳注記号
(底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)補祭の家へ*蜜飯《クチャ》に招ばれて
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降誕祭まへの最後の日が暮れた。冬の、よく澄みわたつた夜が来た。星はキラキラと、輝やきはじめ、月は、善男善女が楽しく★讚仰歌《カリャードカ》を流しまはつて基督を頌《たた》へることの出来るやうに、あまねく下界を照らすため、勿体らしく中空へと昇つた。寒気は朝よりもひとしほ厳しくなつたが、そのかはり、靴の下で軋《きし》む凍《い》てた雪の音が半露里もさきまで聞えるほど物静かな夜である。まだ若い衆連の群れは民家の窓下へ姿を見せず、ただ月のみが、身支度に余念のない娘たちを一刻も早く、足もとで軋音《きしみ》を立てる雪の上へ駈け出させようと、誘惑するもののやうに、家々の窓をばそつと覗き込んでゐるだけであつた。ちやうどその時、一軒の民家の煙突から、一朶の煙がむくむくと吐き出されて、黒雲のやうに空へ棚引いたが、その煙といつしよに、箒に跨がつた妖女《ウェーヂマ》が宙空へたち昇つた。
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★ わたしの地方では降誕祭の前夜に、家々の窓下で『カリャードカ』といふ歌をうたつて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るならはしがある、それを『讚仰歌流《カリャードカなが》し』と呼んでゐる。その流しにやつて来た者に対して、各々の家の主婦なり主人なり、そのほか、誰でも家に居残つた者が、腸詰とか、麺麭とか、銅貨といつた、うちに沢山《たんと》あるものを、袋の中へ投りこんでやる。なんでも昔、阿房のカリャーダといふ者があつて、人々から神様だと思はれてゐたさうで、この『カリャードカ』といふ言葉はそこから生まれたとのことだ。だが、誰がそんなことを知つてゐるものか。こちとら如き凡俗の彼是いふべき筋合ではない。昨年、オーシップ神父は、悪魔の機嫌を取ることになるからと言つて、村々を流してまはることを禁止しようとした。だが、本当のことを言へば、讚仰歌《カリャードカ》の中にはそのカリャーダといふ人物のことは一言半句も詠み込まれてはをらぬ。よく唄はれるのは基督降誕の讚歌で、最後にその家の主人、主婦、子供など全家族の健康を寿ぎ祈つて歌を終るのである。(蜜蜂飼註)
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この時、もし、仔羊皮の縁《へり》をつけて鎗騎兵型に仕立てた帽子に、裏に黒い毛皮をつけた紺色の外套を著こんだソロチンツイの陪審官が、いつも馭者を追ひ立てるのに使ふ、おそろしく器用に編んだ革鞭を手にして地方《ところ》の馬をつけた三頭だての橇に乗つて通りかかつたとしたら、まさしくその妖女《ウェーヂマ》を見つけたに違ひない、このソロチンツイの陪審官の眼を誤魔化すことの出来る妖女《ウェーヂマ》は広い世界にただの一人もゐない筈だから。彼はどの女の家では豚が幾匹仔を産んだとか、どの女の葛籠《つづら》には麻布《ぬの》がどれだけ入つてゐるとか、また堅気な男が祭りに衣類なり家財なりの何品《なに》をいつたい酒場へ抵当《かた》に置いたとかいふことを、細大漏らさず知つてゐる。しかしソロチンツイの陪審官は通らなかつた。それに他所《よそ》のことなど彼には用がなかつた――彼は自郡のことに忙殺されてゐたのだ。ところで、その間にも妖女《ウェーヂマ》はぐんぐん高く昇つて、今はただ一つの黒い小さな点となつて上空にチラホラ隠見してゐるだけである。だがその斑点が姿を現はすたんびに其処にあつた星が次ぎ次ぎと消えて亡くなつた。間もなく妖女《ウェーヂマ》はそれらの星を袖にいつぱい集めた。後には星はもう三つ四つしか光つてゐない。と、反対側の方角から別の斑点が一つ現はれて来た。だんだんそれが大きくなり、伸びひろがると、それはもう斑点ではなかつた。近眼《ちかめ》の人には、たとへ眼鏡の代りに警察部長の乗る馬車の輪を鼻に掛けたところで、それがいつたい何者なのか見分けることは出来なかつたらう。前から見ればてつきり★独逸人で、その、ひつきりなしにヒクヒクと動いて、鼻の先きへぶつかつたものなら何によらずクンクン嗅ぎまはさずには措かぬ鼻づらは、ちやうど豚の鼻のやうにまんまるな五|哥《カペイカ》銅貨型をしてをり、その脚と来ては至つて細く、こんな脚を、あのヤレスコーフ村の村長がもつてゐたなら、最初《はな》の哥薩克踊《カザチョーク》で挫いてしまつたことだらう。ところが、後ろから見ると、まるで制服を著けた県の陪審官そつくりなのだ、といふのは、当今の制服の裾と同じやうな、ツンと尖つた長い尻尾がさがつてゐたからで、ただその口の下に垂れた山羊髯や、頭から突きでた小さい角をみれば無論のこと、五体が煙突掃除人よりも黒いところから推して、それが独逸人でもなければ、県の陪審官でもなく、もはや今宵ひと夜しか、この地上を徘徊して、善良な人間を誑《たぶら》かして罪に曳きこむことのできない、悪魔に他ならぬことは、たやすく知ることが出来た。あしたになれば、早朝の祈祷の最初の鐘の響きと共に、彼は尻尾をまいて、一目散におのが洞窟へ逃げこまねばならないのだ。
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★ 小露西亜では他国人のことを、それが仏蘭西人であらうと伊太利人であらうと乃至は瑞典人であらうと、総て一様に独逸人と呼んだものである。(蜜蜂飼註)
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この間にも悪魔はだんだん月の傍へ忍び寄つて、今にも手を差しのべてそれを掴まうとしたが、急に手をひくと、火傷でもしたやうに指を舐めて、足をバタバタさせた。今度は反対側から飛びかかつたが、又もや飛びのいて手を引つこめた。だが、再度の失敗にもめげず、狡獪な悪魔はその悪戯《いたづら》をやめなかつた。やがて、不意に駈けよりざま、彼は両手で月を掴んだ。そして、ちやうど百姓が煙草を吸ひつけようとして素手で燠《おき》を持つた時のやうに渋面を作つてフウフウ息を吹きかけながら、月をこちらの手からあちらの手へと持ち換へ持ち換へしてゐたが、しまひに大急ぎで衣嚢《かくし》の中へ押しこむと、もう何事もなかつたやうな顔で、さきへ駈け去つてしまつた。
悪魔が月を隠したなどとは、ディカーニカでは誰ひとり知る者がなかつた。尤も郡書記が酒場から四つん這ひになつて這ひだしながら、月が空で矢鱈に踊つてゐるのを見かけたので、そのことを村中の者に誓ひを立てて言い張つたけれど、村民は首を横にふつて、そのうへ彼を嘲笑ひさへした。だが悪魔がこんな無法なことを企らんだのは一体どういふ訳があつてだらう? それはかうだ。彼は分限者のチューブといふ哥薩克が、補祭の家へ*蜜飯《クチャ》に招ばれてゐることを知つてゐた。そこへは村長や、大僧正つきの唱歌隊から戻つて来てゐる、青いフロックを著て、低音《バス》の最低音部を勤める、スウェルブイグーズといふ、補祭の縁つづきの哥薩克や、まだ誰や彼やが招ばれてゐる筈だ。また其処では蜜飯《クチャ》のほかに混合酒《ワレヌーハ》や、※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66]天藍《さふらん》を浸《つ》けた火酒《ウォツカ》や、まだそのほかいろんな料理が出るに違ひなかつた。さうすると、チューブの娘で、村一番といふ美人が、一人で家に残ることになる。さうなれば間違ひなくこの娘のところへ、悪魔にとつてはコンドゥラート神父の説教よりも苦手の鍛冶屋が忍んで来るにきまつてゐる。そいつは恐ろしく腕つ節の強い素晴らしい若者なのだ。この鍛冶屋は仕事の合間々々に塗師《ぬりし》の仕事もして、この界隈ではなかなか上手な画工だといふ評判だつた。まだそのころ達者だつた百人長《ソートニック》のル××コもわざわざポルタワへ彼を呼んで、邸のまはりの板塀を塗らせたものだ。ディカーニカの哥薩克どもが雑汁《ボルシチ》をすする鉢はみんなこの鍛冶屋が彩色をするのだつた。この鍛冶屋は信心ぶかい男で、幾度も聖者の御像を描いた。で、現今《いま》でもT×××寺院には彼の筆になる福音書の使徒ルカの像が残つてゐる。しかし彼の入神の技ともいふべきものは、会堂の右側の、外陣の壁に懸つてゐる一幅の絵である。その絵には、鍵を手にして悪魔どもを地獄から追ひ出してゐる、最後の審判の日の聖ペテロが描かれてゐる。身の滅亡に直面して周章狼狽した悪魔どもが四方八方へもがき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るのを、先きから監禁されてゐた亡者たちが、笞や、木切れや、そのほか手当り次第の得物で打擲しながら追ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐる図である。この画工がその絵に精根を打ち込んで、大きな木の板の上に画筆を揮つてゐる最中に、悪魔は懸命にそれを妨害しようとして、人知れずその手をつつ突いたり、鍛冶場の竈から燃え殻を吹き揚げて画面へまき散らしたりなどもしたが、すべてが無駄にをはつて、その絵は立派に出来あがり、寺院へ運ばれて、外陣の壁へ嵌めこまれた。この時以来、悪魔は鍛冶屋に復讐《しかへし》をしようと心に誓つたのだ。
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蜜飯《クチャ》 乾葡萄や蜂蜜を混じて炊いた飯様の食品で、死者の供養直後、または降誕祭の前夜等に食するもの。
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だが、もはや彼が地上を徘徊することの出来るのも、剰すところ一晩きりだ。今夜こそは何とかして鍛冶屋に対する日頃の欝憤を晴らさにやならぬと思つて、隙を狙つてゐたのだ。さてこそチューブ老人が億劫がつて出かけ渋るやうにと、月を隠してしまつた訳だ。補祭の家まではかなりな道のりでもあり、そのまた道が裏道で、磨粉場《こなひきば》や、墓地の傍をとほつて谷を一つ迂※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しなければならないと来てゐる。月夜でもあればまだしも、混合酒《ワレヌーハ》や※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66]天藍《さふらん》入りの火酒《ウォツカ》がチューブを誘ひ寄せもしたであらうけれど、こんな暗夜に彼を煖炉《ペチカ》から引き離して、家からおびき出すことはちよつと誰の手にもをへることではなかつた。ところで、鍛冶屋はこの老人とは日頃から気合《そり》があはなかつたので、腕つ節の強いにも似ず、父親のゐる時に娘のところへ出かけるなどといふことは先づなかつた。
そんなわけで、悪魔が衣嚢《かくし》へ月を匿すと同時に、急に全世界が真暗《まつくら》になつてしまつたため、補祭のところは愚か、酒場へ行く道もおいそれとは見わけることが出来なかつた。妖女《ウェーヂマ》は不意にあたりが暗くなつたのを見て、あつと叫び声をあげた。悪魔はすかさず、じやらつくやうにそばへ近よつて妖女《ウェーヂマ》と腕を組んで、その耳に口をよせると、人なみに情婦に向つて言ふやうな、紋切型の口説を夢中になつて囁やきだした。実にこの世の中といふやつは奇妙に出来てゐる! この世に住んでゐる限りの者が互ひに見やう見真似に憂身をやつしてゐるのだ。以前、ミルゴロドでは判事と市長だけが多分、羅紗の表をつけた毛皮外套《トゥループ》を著てゐただけで、他の一般の下級官吏は、普通の、表なしの品より他は用ゐなかつたものだ。それが当今ではどうだ、村役人や倉庫番までが*レシェティロフ産の毛皮に、羅紗の表を附けた大外套《シューパ》を
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