新調しをる。事務員や、郡書記でさへも一昨年あたりは、一アルシン六十|哥《カペイカ》もする青い支那絹を買ひ込みくさつた。寺男までが南京織の夏ズボンと、縞目のある手編のチョツキを新調しをる。一口にいへば、誰も彼もが見やう見真似をしたがるのだ! いつたい何時になつたら人間は、かうした余計なことに齷齪しなくなるだらう! ところで悪魔までが矢張りさうした見やう見真似に憂身をやつしてをる処を見るのは、大抵の人々にとつては確かに面白いことに違ひない。それは賭をしてもいいくらゐだ。何より片腹痛いのは、あの見るのも恥かしいやうな不態な恰好をしてゐながら、奴さん自分をいつぱしの優男と思ひこんでゐるらしいことだ。フォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの言ひ草ではないが、穢らはしいにも穢らはしい、醜悪そのもののやうなあの御面相で、情事《いろごと》に憂身をやつさうなんて、いやはやだ! だが、天も地も一様に真暗になつてしまつたので、悪魔と妖女《ウェーヂマ》とのあひだに一体それからどんないきさつが持ちあがつたかは、もはや知る由もなかつた。
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レシェティロフ ボルタワ[#「ボルタワ」はママ]県下の町で、ゴヅトワ河の沿岸に位し、毛皮の産地として有名なところ。
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* * *
「ぢやあ、教父《とつ》つあん、お前は、まだ補祭がとこの新家へは行かなかつたのかい?」と哥薩克のチューブが自分の家の戸口を出ながら、短かい皮外套を著た、痩せて背のひよろ長い相棒の百姓に声をかけた。その男の髯もぢやな顔は、もう二週間以上、よく百姓たちが剃刀を持ち合はせてゐないところから髯を剃るのに使ふ、あの鎌の破片《かけ》も当てられてゐないことを物語つてゐた。「今夜あすこで、素晴らしい酒宴《さかもり》があるだよ!」と、茲でにやりと笑顔を見せてチューブは語りつづけた。「どうかまあ、遅参にならなきやあよいがのう!」
そこでチューブは皮外套の上からしつかり緊めてゐた帯をなほして、帽子をぐつと目深に引きさげると、煩さい野良犬を嚇すための鞭を手に握つた。だが、空を見あげて、思はず彼は足をとめた……。
「これあ、いつたい、なんちふことだ! おい見ねえ! 見ねえつたら、パナース!……」
「なんだね?」と言つて、教父《クーム》も同じやうに空を見あげた。
「なんだぢやあねえや、お月さまが無くなつたでねえか!」
「はあて、面妖な! ほんに、お月さまがねえや。」
「だから、ねえつていふのさ!」チューブには教父《クーム》の相も変らぬ暢気らしさが、少し忌々しかつた。「お前にやあ、いつかうに構はなささうぢやけれど。」
「だといつて、おらにどうしやうがあるだよ?」
「これあ、てつきり、なんだよ、」と、袖で口髭を拭きながらチューブが言葉をついだ。「どこかの悪魔の奴めが――そん畜生にやあ毎朝一杯づつの火酒《ウォツカ》も呑まれなきやあええだ!――邪魔をしくさるのに違えねえだ!……ほんに、人を小馬鹿にしやあがつて……。家んなかにをる時、わざわざ窓から見れあ、殊の外にええ晩ぢやねえか! 明るくて、雪は月の光りにピカピカと光つてまるで昼間のやうに何もかもよく見えたつけが。それが一歩《ひとあし》そとへ出るとどうぢや、まるつきり眼を刳りぬかれでもしたやうでねえか! ※[#始め二重括弧、1−2−54]ちえつ、ほんとに、カチカチに干からびた黒麺麭でそん畜生の歯が残らず折れてしまへばええ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]」
チューブはなほも永いあひだ、ブツブツ不平を言つたり、悪態をついたりしてゐたが、それと同時に肚の中では、さてどちらに決めたものかと思案にかき暮れてゐた。彼には、補祭の家へ行つて、いろんなくだらない駄弁を弄するのが死ぬほど楽しみだつた。あすこには万に一つの間違ひもなく、もう村長が来てゐるだらうし、新来の低音歌手《バスうたひ》も陣どつてゐるだらう。また、二週間おきにポルタワの市《いち》へ出かける煙脂《タール》屋で、村の連中が腹の皮をよるやうな冗談や駄洒落を連発するミキータも坐つてゐることだらう。チューブの眼にはもう、食卓のうへに出てゐる混合酒《ワレヌーハ》の罎がまざまざと見えるやうだつた。さうしたことを思ふと彼の心はうづうづしたが、この夜の暗さに面と向ふと、つい凡ての哥薩克には共通な、例のものぐさの癖が頭をもたげた。今ごろ煖炉《ペチカ》の寝棚のうへで足を縮こめて寝そべりながら、静かに煙管を啣へたまま恍惚たる夢心地で、窓下へ寄りたかつて来る陽気な若い衆や娘つこ達が唄ふ祭り歌を聞いてゐたら、どんなに好いだらう! 彼は自分ひとりだつたら、てつきりもうそれにきめてしまつたのだが、今は二人づれのこととて、暗い夜道を行くのが、さほど億劫でもなければ、怖ろしくもなく、それにどちらかといへば、他人《ひと》から無精者だの臆病者だのと思はれたくもなかつた。そこで悪口を叩くのをやめて、再び教父《クーム》の方へ向きなほつた。
「のう、教父《とつ》つあん、お月さまは無えてのう?」
「無えだよ。」
「奇態なことだよ、まつたく! 時に煙草を一服くんなよ! 教父《とつ》つあん、お前《めえ》の煙草はえらく上物だのう! どこで買ふだね?」
「なんの、上物なもんか!」と教父《クーム》は、飾り縫ひをした白樺皮の嗅煙草入の蓋をしながら、答へた。「ちいと年をくつた牝鶏なら、嚏みひとつするこつてねえだ!」
「おら今でも憶えてをるが、」と、同じ調子でチューブが話しつづけた。「あの、おつ死《ち》んだ酒場の亭主のズズーリャが一度、ニェージンの市《まち》から煙草を土産に持つて来て呉れたつけが、それあ素晴らしい煙草だつたわい! とてつもない上等の煙草だつたぜ! 時に、教父《とつ》つあん、どうするね? そとは真暗ぢやねえかい。」
「ぢやあ、いつそ家《うち》にをることにしようか。」と、扉の把手《とつて》を握りながら、教父《クーム》が答へた。
もし教父《クーム》がさう答へさへしなかつたら、てつきりチューブは出かけることを思ひとまつたのだが、かう言はれると、まるで何かに唆かされでもしたやうに、意地づくでも出かけようといふ気になつたものである。「うんにや、教父《とつ》つあん、行かうや! なあに、行《い》かいでか!」
かう言つてから、すぐに彼は自分で自分の言つたことを忌々しく思つた。こんな晩にそとへ出かけるのは酷くいやだつた。だが、自分がどこまでも我《が》を通して、他人《ひと》の助言に盾をついて押し切つたことがせめてもの心遣りだつた。
教父《クーム》は、家に坐つてゐようが、外へ出かけようが、それはどちらだつていつかう構はないといつた様子で、これつぱかしも厭な顔をせずに、あたりを見まはしながら相棒の杖で自分の両肩をこすつたものだ。――そこで二人の教父《クーム》同士はやをら往来へと出て行つた。
* * *
ところで今度は、一人きり家に残された小町娘が一体どうしてゐるか、それをひとつ覗いて見ることにしよう。オクサーナはまだ十七にはなつてゐなかつたが、ディカーニカの界隈では、まるで世間ぢゆうが、寄るとさはると、この娘の噂さで持ちきりだつた。若者たちは彼女のことをこの村はじまつて以来、第一の美人で、今後とてこれほどの美人は決して生まれつこないだらうとまで褒めそやした。オクサーナはかうした評判を残らず耳に留めて知つてもゐたし、美人にはあり勝ちのやんちやでもあつた。もしも彼女が下著《プラフタ》に下袴《サパースカ》といつた服装《なり》ではなく、せいぜい自宅着《カポート》でも身に著けて出歩かうものなら、他の娘といふ娘の影は忽ち薄れてしまつたことだらう。若者たちは競つて彼女の後をつけまはしたものだが、次第にこの美女の気紛れに我慢がならなくなつて、しまひには一人二人と彼女を離れて、それほど我儘でない他の娘へと移つて行つた。ひとり鍛冶屋だけは、彼とても他の連中よりどれだけ好い待遇を受けてゐる訳でもなかつたけれど、飽くまで強情に附き纒ひとほした。父親が出かけて行つてからも、オクサーナは長いあひだ、錫の縁を嵌めた小さい手鏡の前でおめかしをしたり、容子を作つたりして、われと我が姿に飽かず見惚れてゐた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]みんなはどうしてあたしを美人だなんて言ひはやすんだらう?※[#終わり二重括弧、1−2−55]かう、ただ何か独りごとを言つて見るだけで、別になんの気もなささうに彼女は呟やくのだつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]みんな嘘ばつかり言つてるんだわ。あたしなんか、ちつとも美しくはないわ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
しかし、黒目勝な眼を輝やかして、魂の底まで焼きつくすやうな、得もいはれぬ快よい微笑を浮かべながら、鏡の中にチラと映つた、瑞々しく生気を帯びて、どこかあどけなく若々しいその顔は、立ちどころに正反対の事実を証拠だてた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]ほんとに、こんな黒い眉と眼とがさ、※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、鏡を手離さうともせずに、彼女はつづけた。※[#始め二重括弧、1−2−54]世界ぢゆうに又と無いほど綺麗なのかしら? こんな、天井を向いた鼻の何処が好いんだらう? こんな頬ぺたや、こんな唇の何処がいいのかしら? こんな黒い編髪《くみがみ》がどうして素敵なんだらう? ワーッ、日暮れに人が見たらぞつとするわ、だつて、この編髪《くみがみ》つたら、まるで長い長い蛇がとぐろを巻いたやうに、あたしの頭にぐるぐる巻きついてるんだもの。さうよ、あたしなんかちつとも綺麗ぢやないわ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]だが、また鏡を少し顔から離して見て、かう叫んだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]ううん、やつぱりあたし綺麗だわ! まあ、なんて綺麗だらう! 素敵だわ! あたしをお嫁にする人はほんとは幸福《しあはせ》ものよ! あたしの良人がどんなに惚れ惚れとあたしを眺めることだらう! 嬉しさの余り、きつと夢中になつてしまふわ! 屹度、あたしを死ぬほど接吻するわ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
※[#始め二重括弧、1−2−54]素敵もない娘つこだ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、こつそりそこへ入つて来た鍛冶屋が口の中で呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]それになんちふ自惚の強い女だらう! 一時間も立てつづけに鏡を覗いてゐて、それでもたんのうしないで、おまけに聞えよがしに自惚を言つてやあがる!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
※[#始め二重括弧、1−2−54]ほんとに、若い衆さんたち、あんた方があたしを相手に出来る柄だと思つて? よくまあ、あたしを見てお呉れ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]美しい蓮葉娘はかう独り言をつづけた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あたし、とてもすんなりしたいでたちでせう。この肌着には赤い絹絲で刺繍《ぬひ》がしてあつてよ。それに頭のリボンはどうを! あんた方が逆立ちをしたつて、こんな立派な打紐を見ることは出来なくつてよ! これはみんな、あたしが世界中で一番立派な花聟と結婚ができるやうにつて、お父さんが買つて呉れたんだわ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]ここでニッと笑つた娘は、不意に後ろを振り向くと、そこに立つてゐる鍛冶屋を見つけた……。
彼女はあつと声をあげたが、いきなり男の前に傲然と立ちはだかつた。
鍛冶屋はたじたじとなつた。
この素晴らしい美女の浅黒い顔に現はれた表情を説明することは難かしい。その面持は峻烈な色を湛へてゐたが、その峻烈さの中には、まごまごしてゐる鍛冶屋に対する揶揄の情が窺はれもした。そして微かにそれと見える、怨みをこめた紅潮が、ほのかに顔ぢゆうに溢れてゐた。それらがごつちやになつた、得もいはれぬ美しさに対しては、ただこの場合、百万遍も接吻をして呉れるより他には手の施こしやうがなかつた。
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