ソローハが息子の入つて来た戸口を閉めたばかりのところで、またしても誰か戸を叩く者があつた。それは哥薩克のスウェルブイグーズだつた。最早この男まで袋の中へ隠す訳にはゆかなかつた。といふのは、とてもそんな大きな袋を見つけることは出来なかつたからである。その男は村長よりも肥満《ふと》つてゐて、身の丈はチューブの教父《クーム》よりものつぽだつた。そこでソローハは彼を野菜畠へ連れこんで、そこで彼の言ひ分を聞くことにした。
 鍛冶屋は放心したやうに、遠く村の端々まで拡がつた流しの唄を時々耳に止めながら、自分の家の隅をきよろきよろ身迴してゐたが、最後にくだんの袋に眼をとめた。※[#始め二重括弧、1−2−54]何だつてこんなところに袋があるんだらう? とつくに片づけておかなきやならん筈だのに。あのたはけた恋でおれの頭はからきし阿呆になつてゐたんだよ。あすは祭りだといふのに、まだ家んなかにこんなものを引つ散らしておいてさ。せめて鍛冶場《しごとば》へでも運んでおかう!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 そこで鍛冶屋はそのとてつもなく大きな袋の傍へしやがみこんで、それをしつかりひつ括つて肩へ担ぎあげる仕度をした。だが明らかに彼の心はあらぬ方を彷徨《さまよ》つてゐたに違ひない。さもなければ、袋を締める時に縄の下へ髪の毛を括り込まれたチューブが悲鳴をあげたのと、肥満漢《ふとつちよ》の村長がかなりはつきり逆吃《しやつくり》をしたのを、耳にしない筈がなかつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あの碌でもないオクサーナのことなんか、もうすつかり頭の中から叩き出してしまつた筈ぢやないか?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と鍛冶屋は呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あいつのことなんか忘れてしまつた方がいいのに、後から後から、わざとのやうにあいつのことばつかり思ひ出されてしやうがない。なんだつてかうなんだらう、心で思ふまいとすることが頭の中へ潜りこむつてえのは? うつ、畜生! この袋め、何だか前よりよつぽど重たくなりをつたぞ! きつと炭の他に何か入つてるに違ひない。いや、なんといふおれは馬鹿だ! 今のおれには何に依らず、前よりも重く思へるつてことを忘れてゐるなんて。前には、おれは片方の手で五|哥《カペイカ》銅貨や馬の蹄鉄《くつがね》を折り曲げたり伸ばしたりすることだつて出来たのに、今ぢやあ炭の袋さへ担げないのだ。今に風に吹き倒されるやうなことにだつてなるかもしれん……。なんの!※[#終わり二重括弧、1−2−55]茲でちよつと口を噤むと、うんと一つ気張つて彼は叫んだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]おれは女《あま》つ子ぢやねえぞ! 他人《ひと》の物笑ひになんぞなるものか! こんな袋の十《とう》をだつて担いでやらあ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]そして、頑丈な男が二人がかりでも運びきれさうにない袋を、二つとも健気に肩へ担ぎあげた。※[#始め二重括弧、1−2−54]こいつもついでだ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう言つて彼は、悪魔が底に丸くなつてしやがんでゐた、小さい袋も一緒に持ちあげて、※[#始め二重括弧、1−2−54]この中には、おれの楽器がへえつてゐた筈だて。※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう言つて家を出ると、彼は口笛で歌を唄ひながら歩き出した。
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女房の機嫌は、
おいらにやとれぬ。
[#ここで字下げ終わり]

        *        *        *

 往還は唄や笑ひや喚き声でますます騒がしくなつた。揉みあふ人の群れは、隣り村からやつて来た連中が加はつていよいよ多勢になつた。若い衆連は矢鱈に巫山戯て狂ひまはつた。時々、流しの合間々々に、誰か若い哥薩克が即興で作つた陽気な唄が聞えた。と、不意に群集の中の一人が讚仰歌《カリャードカ》の代りに、吼えるやうな声を振り絞つて※[#始め二重括弧、1−2−54]おほまか※[#終わり二重括弧、1−2−55]を歌ひ出した。

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おほまか、こまか!
団子をおくれ!
お粥もたつぷり
腸詰ひとつ!
[#ここで字下げ終わり]

 どつと笑ひ声がその剽軽者に酬いた。すると小窓の戸があいて、老婆(さういふ婆さんだけが生真面目な爺さんと一緒に我が家に残つてゐたのだ)が、痩せた手に腸詰だのピロオグの一片《ひとかけ》だのを掴んで差し出した。若者や娘たちは我れ勝ちに袋を突き出して獲物を奪ひ合つた。或るところでは若者たちが八方から寄つて来て、娘つこの群れをとりかこんだ。騒々しいわめき声がどつとあがり、一人が雪を丸めて投げつけると、一人はいろんな物の入つた袋を引つたくる騒ぎ。又ある場所では娘たちが若者の一人を捕まへて足がらみを喰はせる。と、若者は袋をかついだまま、まつさかさまに地べたにのめつた。みんなは夜つぴて浮かれまはる覚悟でゐるらしい。それに今夜はお誂らへ向きの素晴らしい星空と来てゐる! そして月の光りは雪の反射で一段と明るく思はれる。
 鍛冶屋は袋を担いだまま立ちどまつた。彼の耳にふと、娘たちの群れにまじつたオクサーナの声と、彼女のか細い笑ひ声が聞えた。彼の身内は一時にぶるつとふるへた。彼は大きい方の二つの袋を地べたへ抛り出しておいて――それ故、その中に入つてゐた補祭は打傷《うちみ》のために悲鳴をあげ、村長は思ひきり逆吃をした――小さい方の袋を担いだまま、今オクサーナの声がしたやうに思はれる娘つ子の群れの後を追ふ若者たちに加はつて歩き出した。
※[#始め二重括弧、1−2−54]そら、あれが彼女《あいつ》だ! まるで女王みたいに振舞つて、黒い眼を光らせてやあがる。彼女《あいつ》に様子の好い若造が何か話をしてやあがるぞ。あいつが笑つてるところを見ると何か可笑しい戯口《ざれぐち》を叩いてやがるのに違ひない。だが彼女《あいつ》はしよつちゆう笑つてゐる女だて。※[#終わり二重括弧、1−2−55]そして、自分でも何が何やらさつぱり分らずに、いつか群集の中をすり抜けた鍛冶屋は、オクサーナのそばまで行つて立ちどまつた。
「あら、ワクーラさん、あんた此処にゐたの! まあ今晩は!」かう美女は、ワクーラの頭をぼうつとさせてしまふやうな、いつもの微笑を湛へながら言つた。「どう、たんと流しで貰へて? おやおや、なんて小つぽけな袋だこと! あの、女帝《おきさき》様の靴は手に入つて? 早くそれを手に入れなさいよ、あたしお嫁に行つてあげるからさ……。」さう言つて、キャツキャツ笑ひ出すなり、娘たちの群れといつしよに駈け去つてしまつた。
 鍛冶屋はまるで根でも生えたやうにその場に棒立ちになつてゐた。※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、もういけねえ。もうこれ以上、おれには我慢が出来ん……。※[#終わり二重括弧、1−2−55]やがて彼はさう呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]だが、ほんとに、どうして彼女《あいつ》はあんなに凄く美しいのだらう? あいつの眼つきといひ、声といひ、何もかもが、まるで灼きつくやうだ、灼きつく……。いけねえ、おれはもう自分で自分をどうすることも出来ない。いよいよ何もかもに結着《けり》をつける時だ。霊魂《たましひ》も消えて亡くなれ! おれは氷の穴から身投げをしておつ死《ち》んでしまはう!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 そして決然たる歩調《あしどり》で娘たちの群れに追ひつくと、彼はオクサーナと肩をならべて、きつぱりした口調で言つた。「左様なら、オクサーナ! 誰でもすきな花聟を見つけるがいいよ、そしてすきな男をからかふがいいさ。しかし、もうおれはこの世ではお目にかからねえよ。」
 美女はびつくりしたらしく、何か言はうとしたが、鍛冶屋は手を一つ振るなり、駈け出してしまつた。
「おうい、何処へ行くんだい、ワクーラ?」若者たちは駈けてゆく鍛冶屋の後ろから呼んだ。
「左様なら、みんな!」と、鍛冶屋はそれに答へて叫んだ。「神の思召しで、又あの世ではお目にかかるかも知れねえが、もうこの世ではいつしよに遊べないよ。左様なら! これまでのことは悪く思はないで呉れ! コンドゥラート神父にさう言つて、おれの罪障の深い魂の追善をして貰つて呉れないか。それからおれはつい俗事にかまけて上帝や聖母の御像へ上げる蝋燭の彩色《いろつけ》をたうとうしおほせなかつたつて、断わつてくれ。そしておれの長持の中にある物はみんなお寺へ寄進するつてこともな。ぢや、左様なら!」
 これだけ言ひきると、鍛冶屋は袋をしよつたまま、どんどん駈け出して行つてしまつた。
「ありやあ、どうかしてるぞ!」と若者たちは言つた。
「死神がついとるだあよ!」と、傍らをとほりかかつた老婆が、さも信心深さうにつぶやいた。「今に、鍛冶屋が首を縊つたつちうて評判になるだんべえ!」
 その間にワクーラは、いくつかの街路《とほり》を走り抜けたが、ちよつと一と息いれようとして立ちどまつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おれはいつたい何処へかう急いでるのだらう?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼は考へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]まるで何もかもすつかり駄目になつてしまつたかなんぞのやうに。いや、もう一ぺん手段を尽してみよう。さうだ、あのザポロージェ人のプザートゥイ・パツュークのところへ行つて見るんだ。何でも人の話では、あの男は悪魔といふ悪魔とはみんな知り合ひで、かうと思つたことはすべて自分の望みどほりになるつてことだ。行かう、どうせ、おれの霊魂《たましひ》はどつちみち亡びてしまふんだから!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 それを聞くと、長いあひだ身動きもせずにすくんでゐた悪魔は、嬉しさのあまり袋の中でこをどりをした。しかし鍛冶屋は、どうかしたはずみに自分の手が袋にひつかかつてひとりでに動いたのだと思つて、頑丈な拳で袋を叩きつけてから、肩の上で一つゆすぶると、プザートゥイ・パツュークの住ひをさして歩き出した。
 このプザートゥイ・パツュークといふ男は、かつてザポロージェにゐたといふことは確かだが、そこから追放されたのか、それとも勝手に出て来たのか、その辺のことは誰も知らなかつた。彼はもうずつと以前から、さうだ、十年か十五年も前から、ディカーニカに住んでゐた。最初《はな》から彼は正真正銘のザポロージェ人らしい生活《くらし》を送つてゐた。つまり、何ひとつ仕事をするでもなく、一日の四分の三は寝て暮し、食物は草刈人足の六人前も平らげ、酒は一度にたつぷり五升樽の一樽くらゐはペロリと呑み乾した。尤もパツュークは背丈が短かかつた代りに、横へ随分ふとつてゐたから、それだけの物を摂りこむ余裕は十分にあつたわけだ。それから彼のはいてゐる寛袴《シャロワールイ》だが、その太いことといつたら、彼がどんな大股に歩いても足はまるで見えず、酒蒸桶《さかをけ》が往来をよたよた蠢めいてゐるといつた恰好だつた。恐らく、こんなことから彼を太鼓腹《プザートゥイ》と呼び始めたものだらう。この男が村へ来てまだ幾週間もたたないうちに、村民は彼が魔法使であることを知つた。そこで誰か病気をするやうなことがあると、さつそくパツュークが呼び迎へられた。ところがパツュークがほんの二言三言、呪文を唱へただけで、病気は立ちどころに、拭ひ取つたやうに、けろりと癒つてしまふのだつた。すきつ腹《ぱら》の貴族があわてて魚の骨を咽喉に立てたりしたやうな場合には、パツュークが実に巧みに拳で背中を叩いて、その貴族の咽喉には何の故障も残さずに骨をば行くべき処へすうと通してしまつた。最近は彼をあちらこちらで見かけることが稀れになつた。それは多分、ものぐさからでもあつたらうが、或はまた、我が家の戸口を擦り抜けるのが年とともに困難になつて来たからでもあらう。この頃では、何か彼に用のある時は、村人の方から彼の家へ出かけて行かなければならなかつた。
 鍛冶屋が内心おどおどしながら、戸を開《あ》けて見ると、パツュークは、団子汁《ガルーシュキ》をいれた鉢を桶の上にのせて、それに向つ
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