だ月を入れて帯皮の脇に釣つてゐた胴籃が、どうかしたはずみで煖炉《ペチカ》の内側にひつかかつて口をあいた。そのすきに月は得たりとばかりに、ソローハの家の煙突を通りぬけて、するすると空へ舞ひあがつた。下界は一時にぱつと明るくなつて、吹雪などはまるで無かつたもののやうに、あたりは鎮まりかへり、雪は広々とした銀の野と輝やき、さながら一面に水晶の星でも撒いたやうに見えた。寒気も幾らか緩んだやうにさへ思はれた。若者や娘たちの群れが、袋を担いで現はれた。歌声が響き出して、流しの群れの集《たか》らぬ家は稀れであつた。
 麗らかに月が輝やいてゐる! こんな夜、キャツキャツと笑つたり歌をうたつたりする娘たちや、賑やかに笑ひさざめく夜にだけしか思ひつくことのできない諧謔《じようだん》や駄洒落を、やたらに連発する若い衆たちの間へ割りこんで揉まれる面白さは、ちよつと口では説明が難かしいくらゐだ。ぴつたり躯《からだ》をくるんだ裘衣《コジューフ》はあつたかく、寒気のために頬の色もひときは生き生きと冴えて、悪巫山戯に至つては、まるで後ろから悪魔に尻押でもされてゐるやうだ。
 袋を手に持つた娘たちの群れはチューブの家へ押しかけて、オクサーナをとりまいた。わめき声や高笑ひやおしやべりで、鍛冶屋の耳は聾《つんぼ》になつてしまひさうだつた。一同はわれ勝ちに何か彼かオクサーナに珍談を語つて聞かせたり、背中の袋をおろして、もうかなり流しで貰ひ集めた白麺麭や腸詰や団子などの品さだめをしたりした。オクサーナはすつかり上機嫌で、にこにこしながら、誰彼なしに相手にしては無駄口を叩いて、ひつきりなく笑ひころげた。
 一種の忌々しさと妬ましさを覚えながら、鍛冶屋はさうしたはしやぎを眺めてゐた。そして自分も大好きな流しが、この時ばかりは呪はしいものに思はれた。
「あら、オダールカさん!」と、陽気な美女が娘たちの中の一人に向つて叫んだ。「あんた、新らしい靴を穿いてるわね。まあ、なんて素晴らしい靴でせう! 金絲《きん》の刺繍《ぬひ》がしてあつてさ。あたしなんかには、誰あれもこんな素敵な靴なんて買つて呉れやしないわ。」
「悲観することあないよ、おれのだいじなオクサーナ!」と、鍛冶屋が口を出した。「おれがお前に高貴な令嬢方も滅多にはいてゐないやうな靴を手に入れてやるから。」
「あんたが?」さう、横柄にチラと彼を眺めて、オクサーナが言つた。「あんたが、あたしの足にはけるやうな靴を何処で手に入れるか、ひとつ見てゐてあげるわ。ふん、あんたが女帝のおはきになる靴でも持つて来てくれたらねえ。」
「まあ、ずゐぶん注文が大きいのね!」と、娘たちの群れが笑ひながら叫んだ。
「ええ、さうよ!」と美女は誇りかに語を継いだ。「ね、皆さん、証人になつて頂戴な。もし鍛冶屋のワクーラさんが女帝のおはきになる靴を持つて来て呉れたら、あたし屹度、その場でこの人のお嫁になることよ。」
 娘たちは、このやんちやな美女を伴つて出かけて行つてしまつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]笑へ! 笑へ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、一同の後から外へ出ながら鍛冶屋はつぶやいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おれは自分で自分を笑つてるんだ! 考へれば考へるほど、おれの頭はまつたくどうかしてゐる。あいつはおれを好いてゐないんだが――ままよ、勝手にしやがれだ! 女といへばまるで世界ぢゆうにオクサーナよりほかにはないとでもいふのかい。あの女でなくつたつて、お蔭さまなことに、村にやあ好い娘《こ》が、ざらにあらあな。オクサーナがなんだい? あんな女は主婦《かみさん》にやあむかないさ。あいつはおめかしの名人といふだけのことぢやないか。ううん、もう沢山だ! もういいかげん、馬鹿な真似はよさう。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 しかし、鍛冶屋がかうきれいさつぱり諦らめようとしたその刹那、ある意地の悪い精霊《すだま》が、※[#始め二重括弧、1−2−54]女帝の靴を持つといで、さうしたらお嫁にいつてあげるよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]とからかふやうに言ひながら笑つてゐるオクサーナの面影をまざまざと彼の眼前へ浮かびあがらせた。すると遽かに彼の魂は騒ぎ立つて、オクサーナのことよりほかには何ひとつ考へられなくなつてしまつた。
 流しの群れは、若い衆は若い衆、娘つこは娘つこと、てんでに往来から往来へと先きを急いだ。しかし鍛冶屋は歩きながらも何ひとつ眼にもとまらず、前には誰よりも好きだつたこのお祭り騒ぎに仲間入りする気にもなれなかつた。

        *        *        *

 話かはつて、その間に、悪魔はソローハの傍らですつかり現つを抜かしてゐた。彼はちやうど陪審官が補祭の娘に向つてするやうな鹿爪らしい顔で女の手に接吻して、自分の胸に手を当ててホッと吐息をつきながら、もしも彼女がうんと言つて自分の欲望《おもひ》を叶へ、然るべく犒《ねぎ》らつて呉れない暁には、何をしでかすか分つたものぢやない。恐らく水中へ身投げをして、魂だけは焦熱地獄へまつさかさまに落ちて行くだらうなどと、ぬけぬけと切りだしたものだ。ところでソローハはさほど情《つれ》ない女でもなかつたし、第一、悪魔と彼女が共謀《ぐる》になつてゐたことも明らかだ。それに、もともと彼女は、自分の尻を追ひまはす連中をあやなすのが大好きで、さういふ手合を引き入れてゐないことは稀らしかつた。しかし今夜だけはこの村の主だつた連中はみな補祭の家の蜜飯《クチャ》に招ばれてゐるから、どうせ誰ひとり忍んで来るものはあるまいと思つてゐた。ところがまんまと予想がはづれて、悪魔がやつと想ひのたけを打ち明けたばかりのところで、だしぬけに表の戸を叩く音がして、それといつしよに、がつちりした村長の声が聞えたのだ。ソローハは急いで戸をあけに駈けだした。咄嗟に、敏捷な悪魔はそこにあつた袋の中へ潜《もぐ》りこんだ。
 村長は帽子についた雪を払ひ落すと、ソローハの手づから火酒《ウォツカ》を一杯のみほして、さて、吹雪になつたので補祭のところへ行くのは見あはせたが、彼女の家の灯りを見ると、急に今夜は一つこちらで暇つぶしをしようと思ひたつて、やつて来たのだと告げた。
 村長がかう言ひきるかきらないのに、また戸を叩く音といつしよに補祭の声が戸口で聞えた。
「わしをどつかへ隠《かく》まつて呉れ。」と、村長が小声で言つた。「今ここで補祭と顔を合はせちやあ、ちと具合が悪いから。」
 ソローハは、こんな大兵なお客をいつたい何処へ隠したものかと、暫らく思案に迷つたが、最後に一番大きい炭袋を選んで、中の炭を桶へぶちまけた。すると、髭を生やした堂々たる村長が頭に帽子をかぶつたまま、その袋の中へ這ひずりこんだ。
 補祭はハアハアいつて、手をこすりこすり入つて来ると、招《よ》んだお客が一人もやつて来ないので、もつけの幸ひだと思つてちよつくら遊びに来たが、吹雪なんぞは屁でもなかつたと言つた。そしていきなり女の傍《そば》へすり寄つて、オホンと咳払ひをしてニヤリと笑つた。それから長い指で女のむつちりした剥きだしの腕にちよいと触つて、狡獪《ずる》さうな、それと同時にひどく得意らしい顔つきをして、「これはいつたい何でしたつけね、美しいソローハさん?」さう言つて、少し後へ飛びのいたものである。
「何だもないぢやありませんか? 腕《かひな》でござんすよ、オーシップ・ニキーフォロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ!」とソローハが答へた。
「ふうむ! 腕かな! ヘッヘッヘッ!」補祭はさう言つて、自分の口切りに心から満足して部屋をひとまはりした。
「ぢやあ、これは何ですかね、わしのだいじなだいじなソローハさん?」同じやうな顔つきで再び女に近よると、ちよいと女のうなじに手を掛けて、さう言つてから、同じやうに後ろへ飛びさがつた。
「御存じの癖に、オーシップ・ニキーフォロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ!」と、ソローハが答へた。「うなじでございますよ、うなじに掛かつてゐるのは頸飾でございます。」
「ふうむ! うなじに頸飾かな! ヘッヘッヘッ!」そして補祭は再び手を揉みながら部屋をひとめぐりした。
「して、これは何ですかな、較《くら》べものもないくらゐ美しいソローハさん?……」ここで、この好色な補祭がその長い指でいつたい何処に触らうとしたのか、それははつきりしないが、ちやうどその時、だしぬけに戸口にノックの音がして、哥薩克のチューブの声が聞えた。
「えつ、南無三、邪魔がはいりをつたわい!」と、補祭はびつくりして叫んだ。「わしの役柄で、こんなところを見つかつて堪るものか?……もしコンドゥラート神父の耳へでも入つたことなら……。」
 だが、補祭の恐れはそれではなくて、何より自分の女房にばれはせぬかと懸念したのだ。彼の女房といへば、それでなくてさへ恐ろしい腕力を振つて、たつぷりあつた彼の長髪《かみ》を引きむしつてほんの僅かにしてしまつた女なのだ。「親切なソローハさん! 後生だよ。」と、全身をわなわな震はせながら補祭は訴へるのだつた。「あんたの善根は、ちやうど、ルカ伝にも言つてある、第十三章……十三……叩いてゐますよ、ほんとに叩いてをる! ああ、わしをどこかへ隠《かく》まつて下されい。」
 ソローハはもう一つ別の袋の炭を手桶へぶちまけた、と、さして大柄でもない補祭がその中へ這ひ込むなり、チョコナンとその底に坐つたので、まだ上から炭の半俵やそこいらは入れることが出来るくらゐだつた。
「今晩は、ソローハ!」と、家の中へ入りざまチューブが声をかけた。「おほかたお前さんはわしが来ようなどとは思はなかつたらうが? ほんとに思ひがけなかつたぢやらう? ひよつとわしが来て邪魔ではなかつたかな?……」チューブはかう言ひながら、その顔に浮々した仔細らしい表情をうかべたが、それは予め彼が鈍重な頭をしぼつて、何かぴりつとした、とつときの冗談を飛ばさうものと工夫をこらしてゐることを物語つてゐた。「多分お前さんは、今ここで誰かといちやついてゐたんぢやらう!……おほかた、もうお前さんは、誰かを隠《かく》まつてゐるのだらうが、ええ?」かうした咎め立てをしてすつかり有頂天になりながら、チューブはソローハから懇ろにされるのはひとり自分だけだと、内心すこぶる得意らしく、ニヤリと笑つた。「ぢやあ、ソローハ、火酒《ウォツカ》を一杯御馳走にならうかな。忌々しい凍《い》てでな、この咽喉《のど》がこごえてしまつたやうな気がするて。どうもはや、降誕祭の前夜がこんな晩と来ちやあ! あの酷い吹雪といつたら、なあソローハ、まつたくどうも、恐ろしい吹雪ぢやつたよ……。ちえつ、手が硬ばつてしまつたわい。裘衣《コジューフ》のボタンもはづせやせん! ああ恐ろしい吹雪ぢやつた……。」
「あけて呉れ!」さういふ声が戸外《そと》から聞えて、戸をドンドン叩く音がしだした。
「誰か戸を叩いとる。」と、立つたままチューブがつぶやいた。
「あけて呉れ!」今度は前より一段と声が高くなつた。
「あれあ鍛冶屋だよ!」と、チューブは帽子を掴みながら言つた。「なあ、ソローハ、何処でもよいからおれを隠して呉れ。おれはこの世で何が厭だといつて、あの忌々しい出来損ひ野郎に姿を見せるくらゐたまらんことはないのぢや! あん畜生の眼の下に山のやうな水腫れでも出来るといいのぢやが!」
 ソローハは、自分でも仰天してしまつて、まるで狂人《きちがひ》のやうに周章《あわて》ふためいた挙句、うつかりチューブに、補祭の入つてゐる袋を指さして、その中へ潜り込めと相図をした。哀れな補祭は、殆んど自分の頭の真上から重たい大男にしやがみこまれて、こちこちに凍てついた長靴で顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を挟まれながらも、苦しいからとて咳払ひはおろか、呻き声一つもらすことさへ出来ない始末であつた。
 鍛冶屋は家へ入つても一切口もきかなければ、帽子も脱がずに、腰掛の上へ倒れるやうに身を投げた。明らかに彼はひどく機嫌を損じてゐた。
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