服の将軍連は、俄かに齷齪とし始め、いやにぴよこぴよこしながら、その人物の一言半句はもとより、些細な身振りにまで注意して、奔命これ務めるといつた様子が見られた。しかし大総帥は、そんなことにはまるで関心をもたぬもののやうに、ちよつと頤をしやくつておいて、ザポロージェ人の方へつかつかと進みよつた。
ザポロージェ人たちは一斉に最敬礼をした。
「これで一同おそろひかな?」と、少し鼻にかかる声で徐ろに彼が訊ねた。
「はい、皆々そろつて居りまするので、閣下!」と、ザポロージェ人たちは、更に敬礼をしなほして答へた。
「わしが教へたとほりの言葉づかひを忘れないやうにな!」
「はい、閣下、忘れはいたしませぬ。」
「これは皇帝《ツァーリ》ですかい?」と、鍛冶屋はザポロージェ人の一人に、そつと訊ねた。
「皇帝《ツァーリ》つちふことがあるものか、お主《ぬし》! これあ、*ポチョームキン元帥だよ。」と、その男が答へた。
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ポチョームキン(グリゴーリイ・アレクサンドロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、1739―1791) エカテリーナ二世時代の顕官で、青年時代より軍籍に身を委ね、女帝の親任を受けて権勢並びなき高位を贏ち得た人。一七七四年、土耳古戦役の軍功により陸軍大将に任ぜられ、参謀次長に補せられたが、土耳古との講和後、伯爵の位を賜はり、新露西亜《ノヴォロシヤ》の総督になつた。一七八三年、クリミヤを露西亜に帰属せしめ、黒海沿岸の防備を強化し、ヘルソン、フェオドシヤ、セ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ストーポリ等の商港を開き、大いに南方治政に貢献した功により、翌年、陸軍元帥、参謀総長に任ぜられた。一七八七年、エカテリーナ女帝を慫慂して南部新領土への行幸を実現したが、その後、他の寵臣のため女帝の信任が己れを離れたことを知り、一旦締結された土耳古との講和を破棄し、再び戦端を開かんと企て、南露ニコラエフに向ふ途中、病歿した。
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次ぎの部屋に人声がして、長い裳裾を引いて繻子の衣裳を著けた貴婦人や、金絲で刺繍をしたカフターンを著て、髪を後ろでつかねた宮内官が大勢入つて来た時には、鍛冶屋は視線の向けどころにすつかりまごついてしまつた。彼の眼にはただキラキラと燦やく光りが映つただけで、それ以外のものは何ひとつ見えなかつた。
ザポロージェ人たちは一斉に床の上に平伏して、異口同音に『御免なされませ、陛下! 御免なされませ!』と、叫び出した。
鍛冶屋は何のことやらさつぱり分らぬままに、恐ろしく躍起になつて、やはり自分も床の上に這ひつくばつてしまつた。
「お待ち!」さういふ、威あつて猛からぬ、いとも爽やかな声が彼等の頭上で聞えた。一二の宮内官があわててザポロージェ人たちの肩を揺ぶつた。
「畏れ多うござりまする、陛下、起つことはなりませぬ! 金輪際、起つことはなりませぬ!」とザポロージェ人たちが叫んだ。
ポチョームキンは唇を噛んだ。つひに自身でザポロージェ人の一人に近づいて、命令的に何か囁やいた。と、ザポロージェ人どもは起ちあがつた。
ここで鍛冶屋は勇を鼓して顔をあげた。と、彼の眼前には、髪白粉をふりかけて、少し肥りじしの、背の低い婦人が、碧いろの眸に鷹揚で、にこやかな眼差を見せて佇んでゐた。その眼差には、何ものをも屈服せしめずには措かぬ威厳がそなはつてゐて、これこそ雲上の位にある女性にのみ特有のものであつた。
「伯爵が今日、妾がまだこれまで知らなかつた御身たちに会はせると約束されたのぢや。」と、碧い眼の貴婦人は物珍らしさうにザポロージェ人達を眺めながら言つた。「どうぢや、こちらでは御身たちを良くもてなしてをるかの?」彼女はさうつづけながら、更に間近く進みよつた。
「はつ、有難き仕合せにござりまする、陛下! 食糧は申し分のない品を支給されて居りまする、尤も当地の羊肉はわれわれザポロージェの品とは、まるで別物ではござりまするが――如何やうにもせよ、暮しの出来ぬことはござりませぬ……。」
ポチョームキンはザポロージェ人どもが、自分の教へておいたのとはまるで違つたことを喋るのを見て、渋面をつくつた。
一人のザポロージェ人は勿体ぶつて前へ進み出ると、かう言つた。「陛下、恐れ多いことにござりまするが、われら忠誠なる陛下の臣が、何を以つて陛下の逆鱗に触れ奉りましたのでござりませうか? われらが、あの穢れたる韃靼の輩らに味方したとでも仰せられるのでござりまするか? それともわれらが、何ぞや土耳古人に与《くみ》したとでも仰せられまするか? 行為にせよ、思想にせよ、陛下に叛逆し奉つたことでもあると仰せられまするか? 何のために御信任を失ひましたのでござりまするか? さきには処々方々に砦を築いてわれらザポ
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