ロージェ軍に備へるやう詔勅を下し給はつたと漏れ承りまするし、その後にはまたわれらを猟兵《カラビネール》に左遷しようとの御意ありとも承りました。然も今また新らしき悲報を耳に致しまする。われらザポロージェ軍に何の罪科がござりまするか? 陛下の皇軍《みいくさ》に*ペレコープを無事通過せしめ、陛下の将卒のクリミヤ人討伐を援助いたしましたことでも、罪科なりと仰せられまするか?……」
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ペレコープ 南露タウリチェスカヤ県下の同名の郡の町で、クリミヤ半島の基部ペレコープ地峡に位する要所。
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ポチョームキンは無言のまま、その指にはめてゐるダイヤモンドを小さい刷毛で無頓着に磨いてゐる。
「して、お身たちの望むのは何事なのぢや?」と、エカテリーナ女帝が下問された。
ザポロージェ人たちは意味ありげに互ひに顔を見あはせた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]ちやうどいい時だ! 女帝は何の望みがあるかと訊ねてをられるのだ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]かう心の中で呟やいて、鍛冶屋はいきなり、床にひれ伏した。
「陛下、どうか御成敗をお下しなされませぬやうに、何卒御赦免の程をお願ひいたしまする! 誠に恐れ多い限りでござりまするが、陛下の御足《おみあし》に穿かせられました、その御靴はそもそも何によつて製せられたものでござりまするか? つらつら考へまするに、世界広しといへども、これだけの仕事の出来る靴屋は他には一人もござりますまい。ほんにまあ、このやうな靴をば宿の妻に穿かせることが出来ましたなら!」
女帝はにつこりとほほゑまれた。廷臣たちも同じくほほ笑んだ。ポチョームキンは苦い顔をすると共に、にやりとした。ザポロージェ人たちは、鍛冶屋が気でも狂つたのではないかと思つて、彼の腕を小突きはじめた。
「お起ち!」と、やさしく女帝が言はれた。「それ程に汝《そち》がこのやうな靴を望むのならば、その望みを叶へてつかはすに造作はない。これよ、直ぐさまこの者に最も高価な、金絲の刺繍をした靴をば一足持つて来てつかはせ! ほんとに妾には、この純朴さが気に入りました! 喃、これ、」と女帝は、他の廷臣たちより少し離れて立つてゐた、*でつぷりして、すこし蒼白めた顔の人物に眼を注ぎながら、言葉をつづけられた。その人物は、身にまとつた真珠の釦のついた質素なカフターンから推して、明らかに廷臣ではなかつた。「御身の機智に富んだ筆には持つて来いの好題目ぢや!」
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でつぷりして、少し蒼白めた顔の人物 これはエカテリーナ朝に於て劇作者として活躍したフォンウィージン(1745―1792)のことで、彼は純然たる露西亜喜劇、『旅団長』及び『未丁年者』の両作に依つて文学史上不朽の名を残してゐる。彼の喜劇は人道的精神に立脚し、西欧心酔時代に於ける新旧両タイプの時人の欠点を指摘した諷刺劇で、ゴーゴリ以前に写実主義的精神を以つて書かれた露西亜喜劇として最初のものである。
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「陛下よ、陛下の御仁慈のほど、誠に恐懼の至りにござりまする。されど、少くともこの場合、*ラフォンテーヌの筆ならではと愚考いたしまする!」さう、真珠の釦をつけた人物が、会釈をしながら答へた。
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ラフォンテーヌ(1621―1695) 十七世紀に於ける仏蘭西古典派最大作家の一人で、寓話詩人として知られ、その寓話詩十二巻に依つて不朽の名をとどめてゐる。
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「いえいえ、真実《まこと》のこと、妾は御身の*※[#始め二重括弧、1−2−54]旅団長《ブリガディール》※[#終わり二重括弧、1−2−55]には今なほ夢中なのぢや。それに御身の朗読はまことに見事ぢやから! それはさて」と、再びザポロージェ人の方を顧みて、女帝は言葉をつづけられた。「聞き及ぶところでは、汝《そち》たちセーチでは決して結婚をいたさぬとのことではないか。」
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※[#始め二重括弧、1−2−54]旅団長《ブリガディール》※[#終わり二重括弧、1−2−55] フォンウィージンの代表作(前項参照)。
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「どう仕りまして、陛下! 人間が女房《かかあ》なしで生きられぬことは、陛下も御承知ではござりませぬか。」と、先刻ワクーラと語り合つたザポロージェ人が答へた。それを聞くと鍛冶屋は、このザポロージェ人が正則な言葉を知つて居りながら、何故、女帝に向つて、わざと、普通に百姓言葉といはれてをる、最も粗野な物の言ひ方をするのだらうと、怪しんだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]老獪《ずる》い連中だ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と心の中
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