で彼は思つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]屹度、これには何か魂胆があるのだな。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
「われわれは僧侶《ばうず》ではござりませぬので、」と、ザポロージェ人は言葉を継いだ。「罪障の深い人間でござりまする。やはり情慾の道にかけましては、堅気な基督教徒のすべてと同様、から意地汚ない方でござりまして。われわれの仲間うちにも女房をもつてをる者は少くござりませぬ。ただセーチでは同棲してをりませぬだけの話で。波蘭に女房を置いてをる者もありますれば、ウクライナに女房を囲つてをる者もあり、土耳古に女房を置くものもありまする。」
 ちやうどその時、鍛冶屋の手もとへ一足の靴が届けられた。
「これはこれは、何ともはや、実に見事な飾りで!」と、彼は有頂天になつて、その靴を推し戴きながら叫んだ。「陛下! このやうなお靴をばお召しになつて、御心もそぞろに氷のうへをお辷り遊ばしまする時の、その御足《おみあし》は、果してどんな御足《おみあし》でござりませうか? どう内輪に見ましても、純白の砂糖ででも出来てゐなくては叶ひますまいと存ぜられまするが。」
 事実、極めて整つた、素晴らしい脚の持主であらせられた女帝は、このザポロージェ人の服装をした、色はすこし浅黒いけれど美男子と認ぬべき、朴訥な鍛冶屋の口から、かうしたお世辞をきいて、思はずにつこりと微笑まれた。
 このやうな破格の優諚にすつかり有頂天になつてしまつた鍛冶屋は、女帝に対していろいろとつまらぬ、例へば、皇帝は蜂蜜や脂肪のやうなものばかり召し上つてゐるといふのはほんたうかなどといつた愚問を、くどくどと連発しようとするところだつたが、ザポロージェ人たちが彼の脇腹を小突くのに気がつくと、はつとして口を噤んだ。そこで女帝が老人連にむかつて、セーチではどんな暮しをしてゐるか、どんな風習が行はれてゐるのかと、御下問になりだしたのを機会《しほ》に、そつと後ろへ下《さが》つたワクーラは、衣嚢《かくし》へ口を寄せて小声で、※[#始め二重括弧、1−2−54]少しも早くここから連れ出してくれ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と言つた、その途端に彼はもう、彼得堡《ペテルブルグ》の関門の外へ出てゐた。

        *        *        *

「身投げをしたんだよ! きつと、身投げをしたんだとも! もし、身投げをしたのでなかつたら、この場に妾の足が吸ひついてしまつて、離れなくなつてもええだよ!」と街路《とほり》のまんなかに一と塊りになつたディカーニカの女房連に混つてゐた、ふとつちよの織匠《はたや》のかみさんが喋り立てた。
「何だと、妾がなんぞや、嘘をついてゐるとでもいふのかい? 妾が誰ぞのとこの牛を盗んだとでも言ふのかい? だあれも妾の言ふことをほんとにしないなんて、妾が誰かを呪つたことでもあるといふのかい?」と、哥薩克の長上衣《スヰートカ》を著こんだ、鼻の先きの紫色をした女が手を振りながら叫んだ。「あのペレペルチハ婆さんが、ちやんと自分の眼で、あの鍛冶屋が首を縊つてをるところを見なかつたといふのなら、妾やもう、いつさい水が飲めなくつても構はないのさ!」
「なに、鍛冶屋が首を縊つたんだと? それあ、とんだことになつた!」と、チューブの家から出て来た村長が、足を停めて、お喋りの連中に擦り寄りながら、言つた。
「へん、火酒《ウォツカ》が呑めなくなつてもと言つた方がよからうよ、この酔つぱらひ婆さんがさ!」と織匠《はたや》の女房が応酬した。「あんたみたいな狂気《きちがひ》女ででもなけれあ、どうして首を縊つたりなんぞ出来るものか! あのひとは身投げをしたのさ! 氷の穴から身を投げたのさ! それあもう、あんたがたつた今、酒場のおかみさんとこにゐたつてことよりも確かに妾や知つとるだよ。」
「この無恥女《はぢしらず》めが! 何だつて人に逆らやあがるんだい!」と、猛々しく、紫いろの鼻をした婆さんが喰つてかかつた。「すつこんでやあがれ、この性悪女め! お前んとこへ毎晩、補祭が通つてゐるのを、この妾が知らないとでもいふのかい。」
 織匠《はたや》の女房は赫つとなつた。
「補祭がどうしたつて? 補祭が誰んとこへ通ふつてんだい? 何をお前さん、いい加減のことをいふんだい?」
「補祭だつて?」と、語尾を引つぱりながら、南京木綿の表を付けた兎皮の外套《トゥループ》を著こんだ梵妻《おだいこく》が、啀みあつてゐる女たちに詰め寄つた。「補祭などと吐かした奴に思ひ知らせてやるから! 補祭つて言つたのあ誰だい?」
「そら、この女んとこだよ、お前さんの御亭主がちよくちよく通つとるのはね!」と、紫鼻の婆さんが、織匠《はたや》の女房を指さしながら、言つた。
「ぢやあ、お前なんだね、古狸め、」と、織匠《はたや》の女房に詰
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