こんだ貴顕紳士がざらに眼につくので、いつたいどの人に帽子を脱るべきか、頓と彼には分らなかつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おお神様! この市《まち》には一体どれだけ旦那衆がゐることだらう!※[#終わり二重括弧、1−2−55]そんな風に鍛冶屋は考へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おほかた毛皮外套《シューパ》を著て街を歩いてゐる人は、どれもこれも、みんな陪審官に違ひない! 又、ああいふ硝子窓のついた素晴らしい馬車を駆つて行く人々は市長でなければ、てつきり警察部長か、それとも、もつともつと身分の高い衆に違ひない。※[#終わり二重括弧、1−2−55]彼のかうした思索の絲は不意に、悪魔の質問に依つて断ち切られた。『女帝の御殿へまつすぐに参内するのでございますか?』※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、それはちよつとおつかない※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、鍛冶屋は考へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]何処か知らないが、こちらに、この秋ディカーニカを通つたザポロージェ人の一行が逗留してゐる筈だ。あれは*セーチから女帝へ捧呈する上奏文をもつて来た連中だ。ともあれ、あの連中に相談して見よう。※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう思つたので、「こりや下道! さあ、おれの衣嚢《かくし》へ入つてしまへ、そしてザポロージェ人のところへ案内するのだ!」
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セーチ 哥薩克軍の本営で、主としてドニェープルの中流にある島嶼、ザポロージェに置かれてゐた。
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 すると悪魔のからだは見る見る痩せ細つて小さくなり、何の苦もなく彼の衣嚢《かくし》へ入つてしまつた。そしてワクーラは、前後を振りかへる暇もなく、いつの間にか或る大邸宅の前へ来てゐた。自分ながら何が何やら分らぬまま、彼は階段を登つて扉をあけたが、立派な飾りつけの部屋の中を覗くと、まぶしさに思はずちよつと後ずさりした。しかし現に今、絹張りの長椅子《デイヴァン》の上に、樹脂を塗つた長靴ばきで胡坐をかいて、俗にコレシュキといふ最も強烈な煙草をスパスパ喫つてゐるのが、ディカーニカを通つた件《くだ》んのザポロージェ人たちに違ひないのを見て、ほつと安心した。
「旦那がた……御機嫌よろしう! 何とまあ、不思議なところでお目にかかるではございませんか!」傍へ近よつて、地べたにつくほど丁寧なお辞儀をしながら、かう鍛冶屋が挨拶をした。
「これあ、いつたいどういふ仁ぢやな?」と、鍛冶屋のすぐ前に坐つてゐた一人が、その向ふに坐つてゐる同僚を顧みて訊ねた。
「おや、お見忘れですかい!」と、鍛冶屋が言つた。「私ですよ、鍛冶屋のワクーラですよ! この秋、ディカーニカをお通りになつた折に、(どうか御壮健で御長命のほどを祈ります)私どもでまるまる二日も御贔負を願ひました。それそれ、その節、幌馬車《キビートカ》の前輪の鉄箍《かなわ》をおつけ申しました鍛冶屋めで!」
「ああ!」と、同じザポロージェ人が言つた。「あの絵の上手な鍛冶屋ぢやつたのう。いや御機嫌よう、同胞《きやうだい》! それはさうと、どういふ風のふきまはしでこちらへやつて来たのぢや?」
「それあなんですよ、その、ひとつ見物がしたいと思ひましてね。さういふぢやございませんか、何でも……。」
「どうぢや、同胞《きやうだい》、」そのザポロージェ人は勿体振つて、自分が大露西亜語を操ることが出来るのを見せびらかすつもりで、かう言つた。「なんと、はんかな都ぢやらうが!」
 鍛冶屋は味噌をつけたり、赤毛布のやうに思はれるのが癪でもあつたし、それに、前にもちよつと述べたやうに、実際、彼は識者らしい言葉づかひを知つてゐたので、「名にしおふ首府《みやこ》ですからね!」と、澄まして応じた。「何とも言葉はありませんて、建物は宏荘ですし、立派な絵は到るところに懸つてをりますし。それにおつそろしく金箔をつかつた文字をベタ一面に書きつらねた家が無性にあるぢやありませんか。何とも言ひやうの無い、素晴らしい均斉美といふやつで!」
 こんな風に、流暢な鍛冶屋の弁舌を聴かされると、ザポロージェ人たちは鍛冶屋にとつて大変有利な解釈を下した。
「ぢやあ、又あとでゆつくり話さうのう、同胞《きやうだい》。わしたちは、これから女帝陛下に拝謁のため参内するところぢやから。」
「女帝陛下に拝謁ですつて? それぢやあ、後生ですから、私もいつしよに伴れて行つて下さいませんか!」
「なに、お前を?」と、ちやうど、ほんものの大きな馬に乗せよと言つて駄々をこねる、四つぐらゐの子供でも賺《すか》しなだめる小父さんといつた調子で、ザポロージェ人が答へた。「お前が宮中へなど参内してどうしようといふのぢや? いかん、駄目なことぢやよ。」かう言つた時、彼の顔にはさ
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