劣らず狼狽してゐたので、どう切り出したらいいか、さつぱり見当がつかなかつた。
「きつと、戸外《そと》は寒いことだらうね?」彼はチューブの方をむいて、そんなことを言つた。
「かなりの凍《い》てで。」と、チューブが答へた。「それはさうと、靴には何を塗りなさるだね、鵞脂《スマーレツ》か、それとも煙脂《タール》かね?」彼はそんなことを言ふつもりではなく、※[#始め二重括弧、1−2−54]どうして村長はこんな袋の中へ入つてゐなすつたので?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と訊きたかつたのに、まるで見当ちがひなことを言ひ出してしまつたのが、我ながら合点がゆかなかつた。
「煙脂《タール》の方が良いやうだね。」と、村長は答へた。「ぢや、御免よ、チューブどん!」さう言つて、ぐつと帽子を目深くかぶると、彼は戸外《そと》へ出て行つた。
「おれとしたことが、なんだつて馬鹿な、靴には何を塗りなさるなんて村長に訊ねたもんだらう!」と、チューブは村長の出て行つた戸口をじつと睨みながら呟やいた。「ええい、くそつ、ソローハの阿女《あま》め! なんちふ奴を袋ん中へなんぞ隠《かく》まひをつたのぢや!……ちえつ、くそ婆あめ! ぢやが、おれはまた馬鹿な……。それはさうと、あの忌々しい袋は何処へやつたのぢや?」
「隅つこへ投り込んでおいたわよ、もうあん中にはなんにも無かつたわ。」さうオクサーナが答へた。
「その何にもないちふぺてんをおれはよう知つとるぞ! ここへ持つて来な、あん中にはまだもう一人は入つとる筈ぢや! ようく振るつて見な……。なんだと、何もねえつて? 忌々しいくそ婆あつたらないて! その癖、あいつは、まるで猫とと食はぬ、お聖人様みてえな面をしてやがるんだ……。」
しかし、チューブが暇にまかせて憤懣を吐き散らしてゐる間に、われわれは鍛冶屋の方へ眼を移して見ることにしよう。時刻はもう、かれこれ九時ちかくにもなつたらうから。
* * *
初めのうち、ワクーラは怖いやうに思つた。殊に地上の物が何ひとつ見えないほど高く昇つて、まるで蠅のやうに、月の下をすれすれに飛び過ぎる時などは、ちよいと身を屈めなかつたら、危く月に帽子をひつかけてしまふところだつたので、彼ははらはらした。だが、暫らくすると彼もすつかり元気になつて、そろそろ悪魔をからかひはじめた。(彼が自分の頸にかけてゐた絲杉の十字架をはづして悪魔の方へ差し出すと、悪魔はくしやみをしたり咳をしたりする――それが面白くて堪らなかつた。彼がわざと頭を掻く振りをして手をあげても、悪魔は自分に向つて十字を切られるのではないかと思つて、一層はやく翔つた。)空はすつかり明るかつた。フハフハした銀いろの靄のたちこめた大気は透明で、何もかも手に取るやうに見ることが出来た。壺の中に坐つたまま、疾風のやうに傍を飛びすぎる魔法使の姿や、一と塊りになつて鬼ごつこをしてゐる星の群れや、また一方にうじやうじやと雲のやうに渦巻いてゐる精霊の一団や、月光の前で踊りながら、自分の同族の肩車に乗つて駈けすぎる鍛冶屋に向つて帽子をとる別の悪魔や、妖女《ウェーヂマ》がまさしく何処か用事のある処へ乗つて行つたらしい箒がひとり翔んで後へ引つ返しつつあるのまで、はつきりと認めることが出来た。そのほか様々の有象無象に彼等は出喰はした。どれもこれも鍛冶屋を見ると、一瞬間、その場に立ちどまつて、まじまじと彼の顔を眺めるが、やがて通りすぎてしまふと、まためいめいの運動をつづけた。鍛冶屋はずんずんと翔んで行つた。と、不意に彼の眼の前に、いつぱい灯の点つた彼得堡《ペテルブルグ》が現はれた。(ちやうどその時、何かの機会で万光飾《イルミネーション》が施こされてゐたのだ。)関門を通りすぎると同時に、悪魔は馬の姿にかたちを変へたので、鍛冶屋は市《まち》の真中を駿馬に跨がつて駈けてゐる自分を見出した。
いやどうも! その喧々囂々たる賑はひと、きらびやかさといつたら! 両側には四階建の大廈高楼がによきによきと聳え立ち、馬蹄の音や車輪の響きが霹靂のやうに轟ろきわたつて四方から反響《こだま》となつて跳ね返つて来る。建物は恰かも地中から生え出て一歩は一歩と高まつてゆくかと思はれ、橋はどよめき、馬車は飛び、辻馬車屋《イズウォスチック》や馭者は喚きたて、積雪は八方から飛んで来る無数の橇の下でシューシューと鳴り、行人は油燈で照明を施こした家々の下を押しあひへしあひして、その頭が煙突や屋根にまでとどくやうな厖大な陰影《かげ》が壁面にゆらゆらと映つてゐる。
すつかり度胆をぬかれて、鍛冶屋はキョロキョロと八方を見まはした。彼にはあらゆる家々がその数限りない灯の眼《まなこ》でカッと自分を睨みつけてゐるやうに思はれた。羅紗表の毛皮外套《シューパ》を著
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