て、その顔にはただ激しい焦慮の色が漂ひ、眼には涙の露が顫いてゐた。その原因《いはれ》を判断することの出来なかつた娘たちは、オクサーナの悩みの種が鍛冶屋のことにあらうなどとは、夢想だにしなかつた。とはいへ、独りオクサーナだけが鍛冶屋のことに心を奪はれてゐたのではなかつた。村人のすべてに、何かしら物足らぬやうな、お祭りがお祭りらしくないやうな心持がされるのであつた。搗てて加へて、補祭は、あの袋の中の旅ですつかり声を嗄らしてしまつたので、辛くも聞きとれるやうな嗄がれ声を振り絞つてゐる有様であつた。なるほど新来の歌手は巧みに低音部《バス》を勤めたには勤めたが、もしここに鍛冶屋がゐたものなら、とてもその足もとへも寄れることではなかつた。鍛冶屋といへばいつも、※[#始め二重括弧、1−2−54]我等の父※[#終わり二重括弧、1−2−55]や、※[#始め二重括弧、1−2−54]天津使《あまつつかひ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]が始まると同時に、頌歌席へあがつて、ポルタワで唄はれるのと同じ調べでうたひ出すのが常であつた。その上、寺の世話方の役を引き受けるのは専ら彼にきまつてゐたものだ。はやくも朝祷は終り、朝祷についで、弥撒も終つた……。いつたい鍛冶屋はどこへ消え失せてしまつたのだらう?
* * *
その夜の残りの時間を、鍛冶屋を肩車にのせた悪魔が戻りの途を駈けに駈けたので、瞬く隙にワクーラは自分の家の傍へ運ばれてゐた。ちやうどその時、鶏が鳴いた。
「こら、何処へ行きをる?」と、鍛冶屋は、逃げ出さうとする悪魔の尻尾を、むんずと掴んで呶鳴りつけた。「待て、待て、まだ用は済まないぞ。おれはまだ、貴様にお礼をしなかつたからなあ。」
彼はさういつて、棒つきれを握りざま、悪魔を三度打ちすゑた。すると哀れな悪魔は、まるでたつた今、役人に一と泡ふかされた百姓よろしくの恰好で、一目散に逃げ出した。とどのつまり他人《ひと》を誑らかしたり、罪に誘《ひ》き入れたり、愚弄したりする、あの人間の敵が、あべこべに、まんまと翻弄されたわけである。
それから、ワクーラは入口の土間へ入るなり、乾草のなかへ潜《もぐ》りこんで、午前ちゆう、ぐつすり寐込んでしまつた。やつと眼がさめた時には、もう疾《とつ》くに太陽が高く昇つてゐたので、彼はびつくりした。※[#始め二重括弧、1−2−54]俺は朝祷にも弥撒にも、寝すごして、よう詣らなかつたのだな!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
そこで信心ぶかい鍛冶屋は、てつきりこれは自分から霊魂を滅ぼさうなどと、大それた考へを起した神罰のために、殊更こんなあらたかな祭日にさへ、寺へも詣られぬやうな眠りを神が課し給うたのだと思つて、しよげ返つてしまつた。だがその償ひには、来週、祭司の前で罪を懺悔することと、けふから向ふ一年間、毎日五十囘づつ、床に額を打ちつけて謝罪の礼拝をすることにしようと心に誓ひ、僅かに胸を安めて、家《うち》のなかへ入つて見たが、そこには誰もゐなかつた。明らかにソローハはまだ戻つてゐないらしい。
彼はくだんの靴を大事さうに懐ろから引つぱり出すと、その善美をつくした細工に眼をみはりながら、ゆうべの不可思議な出来事を思ひ出して、今更のやうに驚ろきに打たれた。手水《てうづ》を使ひ、念にも念を入れて著換をして、例のザポロージェ人から貰つた衣裳を身につけ、長持の中からポルタワへ行つた折に買つて来たまま、まだ一度もかぶらない、新らしいレシェティロフ産の毛皮帽を取り出した。また、これも同じやうに新らしい、五色染の帯を取り出した。それらの品々をひとまとめにして、鞭を取り添へて、風呂敷づつみにすると、真直にチューブの家をさして出かけて行つた。
チューブは、鍛冶屋が自分の家へやつて来た時にはびつくりして眼を瞠つたが、しかもその驚ろきは、鍛冶屋が甦がへつて来たことに対してなのか、それとも鍛冶屋がなんの憚る色もなく自分の許へやつて来たことに対してなのか、または彼がひどくめかしこんで、ザポロージェ人の服装などしてゐることに対してなのか、ちよつと見当がつかなかつた。しかし、ワクーラが風呂敷づつみを解いて、つひぞ村では見たこともないやうな真更《まつさら》な帽子と帯とを彼の前へ差し出し、彼の足もとにひれ伏して、嘆願するやうな声で喋り出した時には、更に驚ろいてしまつた。
「おとつつあん勘弁しておくれ! どうか怒らないでおくれ! さあ、ここに鞭があるだから、幾らでも心の済むだけ殴《ぶ》つておくれ。俺の方からかうして鞭を差し出すだよ。俺あ今はもう何もかも後悔してゐるだよ。さあ殴つておくれ。でも、腹だけは立てないでおくれ。お前さんは死んだ俺の親爺とは仲善しで、いつも招んだり招ばれたり、差しつ差されつの仲だつ
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