たでねえか。」
 村ぢゆうに誰ひとり憚る者もなく、五哥銅貨や蹄鉄をまるで蕎麦煎餅かなんぞのやうに片手で捩ぢ曲げることも出来る、この鍛冶屋が、現在自分の足もとに平伏してゐる様を眺めて、チューブは内心ひそかに満悦でない筈はなかつた。それでも、これ以上、自分の威厳を墜すまいとして、チューブは鞭を取りあげると、ワクーラの背中を三つ殴つた。「さあ、もう沢山ぢや、起つがええ! 何時も老人《としより》のいふことはよく聴けよ! おらとお主《ぬし》の仲のことあ、きれいさつぱり水に流さう。そこで今度は、お主の望みの筋を聴かうでねえか。」
「おとつつあん、おらの嫁《よめ》にオクサーナを貰ひてえだよ!」
 チューブはやや心に思案しながら、帽子と帯とを打ち眺めた。帽子は素晴らしい品で、帯もやはりそれに劣らぬ代物だつた。彼は肚の中にソローハの不実を思ひ浮かべながら、きつぱりとして言つた。「善えだとも! 仲人をよこしな!」
「あら!」と、閾を跨ぎながら、鍛冶屋の姿を見つけたオクサーナは、思はず叫び声をもらして、驚ろきと歓びに両の眼を瞠つたまま立ちすくんでしまつた。
「さあ見てくれ、どんな靴をおれが持つて来たか!」と、ワクーラが言つた。「これこそ、女帝がほんとにお穿きになる靴なんだぜ。」
「いいえ、いいえ! あたし靴なんか要らないの!」と、彼女は両手を振りながら、男の顔から眼も離さずにつづけた。「そんな、靴なんかなくつたつて、あたし……。」それだけ言つて、あとは言ひ得ず、彼女はぽつと赤くなつた。
 鍛冶屋が間近く進みよつて彼女の手を執ると、美女は眼を伏せた。つひぞこれまでに、彼女がこんなに美しく見えたことはなかつた。恍惚となつて鍛冶屋がそつと彼女に接吻すると、彼女の顔はひときはぱつと赧らんで、一段とまた美しくなつた。

        *        *        *

 ある時、今は亡き僧正猊下がディカーニカを通られた折、この村の土地柄を褒められたが、往還を馬車で通り過ぎながら、急に一軒の新らしい民家の前で車を停めて、
「この美しく彩色《いろど》つた家はいつたい誰の家ぢやの?」と猊下は、戸口の傍に嬰児《みどりご》を抱いて佇んでゐた美しい女に訊ねられた。
「鍛冶屋のワクーラの住ひでございます!」と、お辞儀をしながら、オクサーナ(それは他ならぬ彼女であつた)が、それに答へた。
「見事ぢや! あつぱれな仕事ぢや!」と、猊下は扉や窓を眺めまはしながら言はれた。その窓はどの窓も、ぐるりに赤い色の縁がとつてあり、扉といふ扉には一面に煙管を銜へて馬に跨がつた哥薩克の姿が描いてあつた。
 しかし猊下は、ワクーラがいつも寺の懺悔式に神妙につらなり、また、左側の頌歌席をば無料で緑色の地に赤い花模様を出して塗りあげたことを聞き知られた時には、更に更に賞讚の辞を吝まれなかつた。
 だが、そればかりではなかつた。ワクーラは会堂へ入つたところの側壁《わきかべ》に、地獄における悪魔の絵を描いた。それが如何にも気味の悪い姿だつたため、そのわきを通る時には誰でも、ペッと唾を吐いたくらゐであつた。で、女房どもは抱いてゐる赤ん坊が泣き止まないやうな時には、すぐに子供をその絵の傍へつれて行つて、『そうら御覧、あんな怖い鬼が描いてあるだよ!』と言ふのだつた。すると子供は涙を抑へてその絵を横目で眺めながら、母親の胸へ躯《からだ》を擦りつけるやうにしたものである。
[#地から2字上げ]――一八三〇年――



底本:「ディカーニカ近郷夜話 後篇」岩波文庫、岩波書店
   1937(昭和12)年9月15日第1刷発行
   1994(平成6)年10月6日第7刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 後篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※「灯」と「燈」、「糸」と「絲」は新旧関係にあるので「灯」「糸」に書き替えるべきですが、底本で混在していましたので底本通りにしました。
※「★」は自注(蜜蜂飼註)記号、「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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