こんだ貴顕紳士がざらに眼につくので、いつたいどの人に帽子を脱るべきか、頓と彼には分らなかつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おお神様! この市《まち》には一体どれだけ旦那衆がゐることだらう!※[#終わり二重括弧、1−2−55]そんな風に鍛冶屋は考へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おほかた毛皮外套《シューパ》を著て街を歩いてゐる人は、どれもこれも、みんな陪審官に違ひない! 又、ああいふ硝子窓のついた素晴らしい馬車を駆つて行く人々は市長でなければ、てつきり警察部長か、それとも、もつともつと身分の高い衆に違ひない。※[#終わり二重括弧、1−2−55]彼のかうした思索の絲は不意に、悪魔の質問に依つて断ち切られた。『女帝の御殿へまつすぐに参内するのでございますか?』※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、それはちよつとおつかない※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、鍛冶屋は考へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]何処か知らないが、こちらに、この秋ディカーニカを通つたザポロージェ人の一行が逗留してゐる筈だ。あれは*セーチから女帝へ捧呈する上奏文をもつて来た連中だ。ともあれ、あの連中に相談して見よう。※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう思つたので、「こりや下道! さあ、おれの衣嚢《かくし》へ入つてしまへ、そしてザポロージェ人のところへ案内するのだ!」
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
セーチ 哥薩克軍の本営で、主としてドニェープルの中流にある島嶼、ザポロージェに置かれてゐた。
[#ここで字下げ終わり]
 すると悪魔のからだは見る見る痩せ細つて小さくなり、何の苦もなく彼の衣嚢《かくし》へ入つてしまつた。そしてワクーラは、前後を振りかへる暇もなく、いつの間にか或る大邸宅の前へ来てゐた。自分ながら何が何やら分らぬまま、彼は階段を登つて扉をあけたが、立派な飾りつけの部屋の中を覗くと、まぶしさに思はずちよつと後ずさりした。しかし現に今、絹張りの長椅子《デイヴァン》の上に、樹脂を塗つた長靴ばきで胡坐をかいて、俗にコレシュキといふ最も強烈な煙草をスパスパ喫つてゐるのが、ディカーニカを通つた件《くだ》んのザポロージェ人たちに違ひないのを見て、ほつと安心した。
「旦那がた……御機嫌よろしう! 何とまあ、不思議なところでお目にかかるではございませんか!」傍へ近よつて、地べ
前へ 次へ
全60ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平井 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング