劣らず狼狽してゐたので、どう切り出したらいいか、さつぱり見当がつかなかつた。
「きつと、戸外《そと》は寒いことだらうね?」彼はチューブの方をむいて、そんなことを言つた。
「かなりの凍《い》てで。」と、チューブが答へた。「それはさうと、靴には何を塗りなさるだね、鵞脂《スマーレツ》か、それとも煙脂《タール》かね?」彼はそんなことを言ふつもりではなく、※[#始め二重括弧、1−2−54]どうして村長はこんな袋の中へ入つてゐなすつたので?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と訊きたかつたのに、まるで見当ちがひなことを言ひ出してしまつたのが、我ながら合点がゆかなかつた。
「煙脂《タール》の方が良いやうだね。」と、村長は答へた。「ぢや、御免よ、チューブどん!」さう言つて、ぐつと帽子を目深くかぶると、彼は戸外《そと》へ出て行つた。
「おれとしたことが、なんだつて馬鹿な、靴には何を塗りなさるなんて村長に訊ねたもんだらう!」と、チューブは村長の出て行つた戸口をじつと睨みながら呟やいた。「ええい、くそつ、ソローハの阿女《あま》め! なんちふ奴を袋ん中へなんぞ隠《かく》まひをつたのぢや!……ちえつ、くそ婆あめ! ぢやが、おれはまた馬鹿な……。それはさうと、あの忌々しい袋は何処へやつたのぢや?」
「隅つこへ投り込んでおいたわよ、もうあん中にはなんにも無かつたわ。」さうオクサーナが答へた。
「その何にもないちふぺてんをおれはよう知つとるぞ! ここへ持つて来な、あん中にはまだもう一人は入つとる筈ぢや! ようく振るつて見な……。なんだと、何もねえつて? 忌々しいくそ婆あつたらないて! その癖、あいつは、まるで猫とと食はぬ、お聖人様みてえな面をしてやがるんだ……。」
 しかし、チューブが暇にまかせて憤懣を吐き散らしてゐる間に、われわれは鍛冶屋の方へ眼を移して見ることにしよう。時刻はもう、かれこれ九時ちかくにもなつたらうから。

        *        *        *

 初めのうち、ワクーラは怖いやうに思つた。殊に地上の物が何ひとつ見えないほど高く昇つて、まるで蠅のやうに、月の下をすれすれに飛び過ぎる時などは、ちよいと身を屈めなかつたら、危く月に帽子をひつかけてしまふところだつたので、彼ははらはらした。だが、暫らくすると彼もすつかり元気になつて、そろそろ悪魔をからかひはじめた。(彼が
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