て、その顔にはただ激しい焦慮の色が漂ひ、眼には涙の露が顫いてゐた。その原因《いはれ》を判断することの出来なかつた娘たちは、オクサーナの悩みの種が鍛冶屋のことにあらうなどとは、夢想だにしなかつた。とはいへ、独りオクサーナだけが鍛冶屋のことに心を奪はれてゐたのではなかつた。村人のすべてに、何かしら物足らぬやうな、お祭りがお祭りらしくないやうな心持がされるのであつた。搗てて加へて、補祭は、あの袋の中の旅ですつかり声を嗄らしてしまつたので、辛くも聞きとれるやうな嗄がれ声を振り絞つてゐる有様であつた。なるほど新来の歌手は巧みに低音部《バス》を勤めたには勤めたが、もしここに鍛冶屋がゐたものなら、とてもその足もとへも寄れることではなかつた。鍛冶屋といへばいつも、※[#始め二重括弧、1−2−54]我等の父※[#終わり二重括弧、1−2−55]や、※[#始め二重括弧、1−2−54]天津使《あまつつかひ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]が始まると同時に、頌歌席へあがつて、ポルタワで唄はれるのと同じ調べでうたひ出すのが常であつた。その上、寺の世話方の役を引き受けるのは専ら彼にきまつてゐたものだ。はやくも朝祷は終り、朝祷についで、弥撒も終つた……。いつたい鍛冶屋はどこへ消え失せてしまつたのだらう?
* * *
その夜の残りの時間を、鍛冶屋を肩車にのせた悪魔が戻りの途を駈けに駈けたので、瞬く隙にワクーラは自分の家の傍へ運ばれてゐた。ちやうどその時、鶏が鳴いた。
「こら、何処へ行きをる?」と、鍛冶屋は、逃げ出さうとする悪魔の尻尾を、むんずと掴んで呶鳴りつけた。「待て、待て、まだ用は済まないぞ。おれはまだ、貴様にお礼をしなかつたからなあ。」
彼はさういつて、棒つきれを握りざま、悪魔を三度打ちすゑた。すると哀れな悪魔は、まるでたつた今、役人に一と泡ふかされた百姓よろしくの恰好で、一目散に逃げ出した。とどのつまり他人《ひと》を誑らかしたり、罪に誘《ひ》き入れたり、愚弄したりする、あの人間の敵が、あべこべに、まんまと翻弄されたわけである。
それから、ワクーラは入口の土間へ入るなり、乾草のなかへ潜《もぐ》りこんで、午前ちゆう、ぐつすり寐込んでしまつた。やつと眼がさめた時には、もう疾《とつ》くに太陽が高く昇つてゐたので、彼はびつくりした。※[#始め二
前へ
次へ
全60ページ中57ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平井 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング