ディカーニカ近郷夜話 後篇
VECHERA NA HUTORE BLIZ DIKANIKI
はしがき
ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli
平井肇訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)公《おほやけ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#始め二重括弧、1−2−54]

*:訳注記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)次ぎに*濁麦酒《クワス》に浸けて、
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 さていよいよ二冊目の本を御覧に入れる、いや二冊目といふよりは寧ろ最後の本といつた方がよい! ありやうは、これも公《おほやけ》にするのは全く不本意なことなんで。実際、もういい加減に身の程を知つてもいい頃ぢや。実を言へば、そろそろ村でも、わしのことを哂笑《わら》ひだしをつたのぢや。その言ひ草が、※[#始め二重括弧、1−2−54]ほいほい、老爺《ぢい》さんもすつかり耄《ぼ》けてしまつたよ。あの高齢《とし》をからげて、こんな子供だましみたいな物を拵らへて御恐悦なんだからなあ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、かうぢや。まことに尤もな話で、もう疾《とつ》くに楽隠居でもして落ちついてゐるのがほんたうぢやて。ひよつとすると、親愛なる読者諸君は、わしがこんなことを言つてわざと老人《としより》ぶつてゐるのだとお思ひかも知れんが、どうしてどうして、口に一本の歯も無くなつた今日、何を好んで老人ぶることがあらう! この頃では何か柔かいものにでもあたれば、まあ、どうにか食へもするが、ちよつと固いものにでもぶつかつたら、てんで噛み切ることも出来ませんのぢや。兎も角、またこの本を一冊お目にかける! が、どうか頭《てん》からこきおろしたりはしないで頂き度い! 別れ際に悪口を浴びせるのは宜しくないことぢや、殊に何時また会へるやら知る由もない相手にむかつては尚更のことぢや。さて、この本では、ひとりフォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチを除けば、殆んど諸君にとつて新顔の話し手ばかりの物語を御披露する次第ぢや。あの、よほどの才子や莫斯科人の大部分にもちよつと呑みこみにくいやうな気障な言葉づかひで話をした、例の豌豆いろの長袗《カフターン》を著た貴公子先生からはもう、すつかり音沙汰がない。いつかみんなを相手に喧嘩をして以来、てんでわれわれの村へ寄りつかなくなつたのぢや。さうさう、あれはまだお話しなかつたかな? いや、とても滑稽な出来事がありましたのさ。去年の、なんでも夏頃のこと、さうぢや、ちやうどわしの名附日の祝ひの当日だつたと思ふが、うちへお客がぞろぞろやつて来たのぢや……(茲で一言申しあげておかねばならないのは、有難いことに、土地《ところ》の衆が忘れもせずにこの老人のわしをちやんと訪ねて呉れることなんで。わしが自分で名附日の憶えがあるやうになつてから、もう五十年からになるが、わしの年齢《とし》が正確に幾つなのか、それは当のわしも、うちの婆さんも、はつきりしたことは申しあげ兼ねる。何れにしても七十歳間近にはなる筈ぢや。ディカーニカの祭司ハルラムピイ師に訊けばわしの生年月日もわかるのぢやが、惜しいことに、もう五十年も前にこの人は亡くなつてしまつたのぢや。)それは扨、お客に来てくれた連中は、ザハール・キリーロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・チュホプペーニコだの、ステパン・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・クーロチカだの、タラス・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・スマチニェーニキイだの、陪審官のハルラムピイ・キリーロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・フロースタだのといつた面々でな、それから、まだある……ええと、名前をすつかり胴忘れしてしまつたが……オーシップ……オーシップと……、ええつ、ほんとにミルゴロドぢゆうに誰知らぬ者もない人物なのぢやが! それに、その男は話をするときに、いつも先づ、パチパチと指を鳴らしてから、両手を腰にかふ癖があるのぢやが……。いや、その男のことは、まあ、どうでもいい! またの時、いつか思ひ出せるぢやらう。ところで諸君にお馴染の、くだんの貴公子先生もポルタワからやつて来た。フォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは勘定に入れるまでもない、この人はもう身内の者も同然なのぢやから。さて一同、大いに話がはずんだものぢや。(茲でまた一言お断りして置かねばならないのは、つひぞ我々の口の端に、取るに足らないやうな話題がのぼつた例しのないことで、元来わしは礼節に適つた、所謂、面白くて教訓《ため》になる
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