やうな話がいつも好きなのぢや。)――で、その折には林檎の塩漬の仕方について話がはずんでゐたのぢや。宅《うち》の婆さんが、それには先づ前もつて林檎をよく洗ひ浄めて、次ぎに*濁麦酒《クワス》に浸けて、それから今度は云々といつた塩梅に、語り進めようとした時ぢや。『そんなことをして何になるものですか!』と、例のポルタワの先生め、豌豆いろの長袗《カフターン》の胸へ片手を突込んで、のつしのつしと歩調《あしどり》も重々しく部屋を歩きまはりながら、婆さんの話の腰を折りをつたのぢや。『それぢやあ、なんにもなりませんよ! 何よりも先づ第一に、水金鳳《きつりぶね》の葉を交互《たがひちがひ》に撒き込むことですよ、さうしてから初めてその……。』さあ、ひとつ読者諸子に伺つて見たいものぢやて、つひぞ何時か、林檎の中へ水金鳳《きつりぶね》の葉を撒き込むなどといふ話を、お聴きになつた例しがありますか、ひとつ公平な御意見を伺ひたいもので! なるほど、すぐりの葉とか、ぶたごやしとか、つめくさなどは入れもするぢやらうが、水金鳳《きつりぶね》なんちふ代物を漬け込むなどとは……いや、わしはてんでそんなことは聴いたこともありませんわい。もう、かういふことにかけては、うちの婆さん以上に詳しい人は先づないぢやらうて。さあ、ところでどうだらう! わしは態々この男をば一角《ひとかど》の人間なみに、そつと傍らへ引つぱり寄せてな、『これさ、マカール・ナザーロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、お前さんとしたことが、そんなことを言つて混ぜつ返しなさんなよ! お前さんは立派な御仁で、一度などは知事とひとつ卓子で食事をしたこともあると、御自分でも言つておいでぢやないか。ね、そんな変てこなことを言ふと人に笑はれますぜ、ほんとに!』と、かういつて注意してやつたものぢや。ところで、諸君は、これに対して彼がなんと答へたと思し召す? 何ひと言、返辞をするどころか! ただペッと床へ唾を吐くと同時に、帽子を掴んで、誰一人に向つて暇乞を述べるでも、会釈ひとつするでもなく、プイと戸外《そと》へ飛びだしてしまつたのぢや。ただ我々の耳には、馬車が鈴を鳴らしながら門の方へ出てゆく音が聞えただけぢや。馬車に乗ると、その儘たち去つてしまつたといふ訳でな。それが結局こちとらには仕合せといふものぢや! なあに、こちとらには、あんなお客に用はないぢやて! いや、まつたく世の中に名士つてえ奴くらゐ始末の悪いものはない。あの男の叔父とかが、なんでも警視か何かを勤めてゐたことがあるつてえのでな、それで先生、いやにお高くとまつてゐくさるのぢや。警視といへば世の中にこれほど偉いものはない高位高官だとでも思つてゐるのかい? お蔭さまで、警視なんかより、もつともつと偉いものが幾らでもありまさあね。いんにや、わしにはかういふ名士つてえ奴がどうも気に食はん。たとへばあのフォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチを御覧《ごらう》じろ、どれだけ有名な人といふでもないけれど、あの人をよく見ると、顔に何処となく、どつしりした威厳が具はつてをる――あの人が、なんでもない普通《なみ》の嗅煙草を嗅ぎ始める様子を見ても、自然と頭が下るやうな人徳といふものが窺はれるのぢや。会堂であの人が頌歌席に立つて讚美歌を唱ひ出すといふと、なんとも名状しがたい感動に打たれてしまふ! まるで、躯《からだ》ぢゆうがとろけてしまふやうな気持ぢや!……ところが、あの……いや、彼奴《あいつ》のことなんざあ、どうだつていい! 奴さん、自分の話が入らなくつちやあ、二進も三進もゆくまいと自惚れてをるのぢやらう。ところが、ちやんとこのとほり一冊の本にさへ纒まつたぢやごわせんかい。
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濁麦酒《クワス》 ライ麦の麦芽を用ゐて醸造した一種の家庭飲料で、ビールに似た軽い酒精分を含み、露西亜人の一般に愛飲するもの。
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さて、わしは慥か、この本の中へ自分自身の噺もさし加へるやうなお約束をしておいた筈ぢや。実際そのつもりでゐたのぢやが、わしの噺には少くともこんな本の三冊分くらゐの紙面が要るつてえことが分つたんでな。いつそ別冊にして発行しようかとも思つたけれど、また思ひ直しましたのぢや。わしはちやんと知つとる――諸君がこの老人を哂笑《わら》ひ出されるつてえことをな。いやもうそれは真平御免ぢや! では御機嫌よう! もう当分、或はもうこれつきり永久に、お目にはかかりますまい。それがどうしたといふのぢや? どだい諸君にとつては、わしなど初めつからこの世にゐなくつたつて同じことぢやないか。一年、二年と時の経つうちには――諸君のうち誰ひとりとして、後年この老蜜蜂飼ルードゥイ・パニコーのことなど、思ひ出したり悲しんだりして
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