んとついていて、ひとりで馬車に乗ったり歩いたりすることのできなかった鼻が、まったく、どうして礼服を着ているなどということがあり得よう! 彼は馬車の後を追って駆けだしたが、さいわい、馬車は少し行って*カザンスキイ大伽藍の前でとまった。
 彼は急いで、よくこれまでそれを見て嘲笑《わら》ったりした、顔じゅうを繃帯して、二つの穴から眼玉だけ出している乞食の老婆の立ちならんでいる間を押し分けるようにして、伽藍へ駆けつけるなり、堂内へ飛びこんだ。堂内には参詣人も少しあったが、彼らは皆、入口の間近に佇《たたず》んでいた。コワリョーフはひどくどぎまぎして、今は祈祷を捧げるなどという気力の少しもないことを感じた。彼は隅から隅へと、鼻の姿を探し求めたが、やがて一方に当の相手の佇んでいる姿を見つけた。鼻は例の大きな立襟の中へ顔をすっかり隠して、ひどく信心深そうな様子で祈祷を捧げていた。
【どうして、あいつに近づいたものかな?】と、コワリョーフは考えた。【服装《なり》がれっきとしており、おまけに五等官と来てやあがる。】
 彼は相手の傍らに立って咳払いをしはじめたが、鼻は寸時もその信心深そうな姿勢をくずさず、しきりに礼拝している。
「もし、貴下《あなた》、」と、コワリョーフは無理にも心を鞭打って、「あの、もし貴下《あなた》……」
「何か御用で?」と、鼻が振りかえって答えた。
「わたくしには不思議でならないのですよ、貴下《あなた》……どうも、その……。御自分の居どころはちゃんと御存じのはずです。それなのに、意外なところでお目にかかるものでして、いったいここはどこでしょう? お寺ではありませんか。まあ、思ってもみて下さい……」
「どうも、おっしゃることが理解《のみこ》めません、もっとはっきりおっしゃって下さい。」
【どう説明したものだろう?】と、コワリョーフはちょっと考えてから、勇を鼓してこう切りだした。「もちろん、わたくしはその……。それはそうと……。どうも、鼻なしで出歩くなんて、そうじゃありませんか、これが、あのウォスクレセンスキイ橋あたりで皮剥ぎ蜜柑《みかん》を売っている女商人か何ぞなら、鼻なしで坐っていても構わないでしょうがね。しかし万々のまちがいもなく今に知事の口にありつかれようとしている人間にとっては、その……。いや、わたくしには何が何やらさっぱりわからないのですよ、貴下。(こう言い
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