いて行くよりほかはなかった。【だが、もしかしたら思い違いかも知れないぞ。そうむやみに鼻がなくなる訳はないから。】こう思ったので、彼は鏡をのぞいてみるために、わざわざ菓子屋へ立ち寄った。好いあんばいに店には誰もいなかった。小僧たちが部屋の掃除をしたり、椅子をならべたりしているだけで、中には寝呆《ねぼ》け眼《まなこ》をして、焼きたてのケーキを盆にのせて運び出している者もあった。テーブルや椅子の上には、コーヒーの汚点《しみ》のついた昨日の新聞が散乱していた。【いや、これは有難い、誰もいないや。】と、彼は呟いた。【今なら、見てやれるぞ。】彼はおずおず鏡に近寄って、ひょいと中をのぞいた。【畜生め! 何という醜態《ざま》だ!】彼はそう口走って、ペッと唾を吐いた。【せめて鼻の代りに何かついているならまだしも、まるっきり何もないなんて……】
 いまいましげに唇をかんで菓子屋を出た彼は、日頃の習慣に反して、誰にも眼をくれたり、笑顔を見せたりはすまいと肚をきめた。ところが、不意に彼は或る家の入口の傍で棒立ちになって立ちすくんでしまった。じつに奇態な現象がまのあたりに起こったのである。一台の馬車が玄関前にとまって、扉《と》があいたと思うと、中から礼服をつけた紳士が身をかがめて跳び下りるなり、階段を駆けあがっていった。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついた時のコワリョーフの怖れと驚きとはそもいかばかりであったろう! この奇怪な光景を目撃すると、眼の前のものが残らず転倒してしまったように思われて、彼はじっとその場に立っているのも覚束なく感じたが、まるで熱病患者のようにブルブルふるえながらも、自分の鼻が馬車へ戻って来るまで、どうしても待っていようと決心した。二、三分たつと、はたして鼻は出て来た。彼は立襟のついた金の縫い取りをした礼服に鞣皮《なめしかわ》のズボンをはいて、腰には剣を吊っていた。羽毛《はね》のついた帽子から察すれば、彼は五等官の位にあるものと断定することができる。前後の様子から察して、彼はどこかへ挨拶に来たものらしい。ちょっと左右を見まわしてから、馭者に、「馬車をこちらへ!」と叫んで、乗り込むなり駆け去ってしまった。
 哀れなコワリョーフは気も狂わんばかりであった。彼はこのような奇怪千万な出来事をどう考えてよいのか、まるで見当がつかなかった。まだ昨日までは彼の顔にちゃ
前へ 次へ
全29ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ゴーゴリ ニコライ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング