ニコライ・ゴーゴリ
平井肇訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)理髪師《とこや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)相手の頬と下|歯齦《はぐき》にかけただけで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]

*:注釈記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)十*プードもある
−−

      一

 三月の二十五日にペテルブルグで奇妙きてれつな事件がもちあがった。ウォズネセンスキイ通りに住んでいる理髪師《とこや》のイワン・ヤーコウレヴィッチ(というだけでその苗字は不明で、看板にも、片頬に石鹸の泡を塗りつけた紳士の顔と、【鬱血《こり》もとります】という文句が記してあるだけで、それ以外には何も書いてない)、その理髪師《とこや》のイワン・ヤーコウレヴィッチがかなり早く眼をさますと、焼きたてのパンの匂いがプーンと鼻に来た。寝台の上でちょっと半身をもたげると、相当年配の婦人《おんな》で、コーヒーの大好きな自分の女房が、いま焼けたばかりのパンを竈《かまど》から取り出しているのが眼についた。「きょうはねえ、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナ、コーヒーは止しにするぜ。」と、イワン・ヤーコウレヴィッチが言った。「そのかわり、焼きたてのパンに葱《ねぎ》をつけて食べたいね。」(つまり、イワン・ヤーコウレヴィッチにはコーヒーもパンも、両方とも欲しかったのであるが、一どきに双方を要求したところで、とても駄目なことがわかっていた、それというのも、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナが、そうしたわがままをひどく好かなかったからである。)【ふん、お馬鹿さん、欲しけりゃパンを食べるがいいさ、こちらにはその方が有難いや。】と、細君は肚の中で考えた。【コーヒーが一人前あまるというもんだからね。】そしてパンを一つ食卓の上へ抛り出した。
 イワン・ヤーコウレヴィッチは、礼儀のためにシャツの上へ燕尾服をひっかけると、食卓に向かって腰かけ、二つの葱の球に塩をふって用意をととのえ、やおらナイフを手にして、勿体らしい顔つきでパンを切りにかかった。真二つに切り割って中をのぞいてみると――驚いたことに、何か白っぽいものが目についた。イワン・ヤーコウレヴィッチは用心ぶかく、ちょっとナイフの先でほじくって、指でさわっ
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