おれは人間のことが知りたいのさ、おれには精神的な糧《かて》がほしいんだ――それでもつて魂を養ひ、心を慰めてもらはうと思へば、何だい、こんな馬鹿々々しいことばかり……。何かもう少しましなことでも書いてないか、一枚とばしてやれい!
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『……ソフィーさまは小卓《こづくゑ》に向つて、何やら縫物をしていらつしやる。あたしはまた往來《ゆきき》の人どほりを眺めるのが好きで、窓の外をじつと見てゐると、そこへひよつこり從僕が入つて來て、※[#始め二重括弧、1−2−54]チェプロフ樣のお越しでございます!※[#終り二重括弧、1−2−55]つて言ふの。※[#始め二重括弧、1−2−54]お通しして頂戴!※[#終り二重括弧、1−2−55]と、ソフィーさまは彈んだ聲で仰つしやるなり、矢庭にあたしをお抱きあげになつたわ。※[#始め二重括弧、1−2−54]まあ、メッヂイや、ね、メッヂイ! ここへ今いらつしやる方がどんな方だか、お前に分つてゐたらねえ――栗色髮《ブリュネット》で、侍從武官でさ、そのお眼《めめ》といつたら! 黒目がちの、まるで瑪瑙のやうなお眼《めめ》なんだよ!※[#終り二重括弧、1−2−55]さう仰つしやるなり、ソフィーさまはお居間へ駈けこんでおしまひになつたの。ほんのちよつと間をおいて、そこへ侍從武官が入つていらしつたが、黒い頬髯を生やした、なるほど若いお方で、つかつかと鏡のそばへ近寄つて、ちよつと髮を撫でつけてから、お部屋をぐるりと見まはしなすつたわ。あたしはちよつと唸つておいて、自分の居場所にすわつてゐたの。すると間もなくソフィーさまがお出ましになつて、とても嬉しさうにその方の氣取つた足擦りの御挨拶にお會釋をなさるのよ。あたしはそれを見て見ない振りで何くはぬ顏をして、やはり窓の外へ眼をやつてゐたけれど、それでも首を少し曲げて、一體どんなお話をなさるだらうと、一心に聽耳をたててゐたわ。そしたらさ、どうでせう、〔ma《マ》 che`re《シェール》〕(あんた!)、まるで他愛もないことばかり話してるのよ! どこかの奧さんが舞踏《ダンス》の何とかいふ型を他の型と間違へただの、ボボフとかいふ男《ひと》は襟飾《ジャボー》をつけた恰好が鸛《こうのとり》そつくりだつたが、その人がもう少しでころげるところだつただの、リディナとかいふ女《ひと》は緑いろの眼をしてゐる癖に自分では碧い眼だと思つてゐるだのと、そんなやうなつまらない話ばかりなの。あたし心の中でさう思つたわ――※[#始め二重括弧、1−2−54]まあ、この方のどこがそんなに好いんだらう、トレゾールと並べたら、こんな侍從武官なんか、てんで比べものにならないぢやないか! ほんとにさ! まるでお月さまと鼈《すつぽん》ほどの違ひだわ! 第一この侍從武官はおそろしくのつぺりした、だだつ廣い顏でさ、その顏のぐるりにまるで黒い手巾《ハンカチ》でも卷きつけたやうな頬髯を生やしてゐるだけなんだけれど、そのトレゾールの方は、顏から口もとがほんとに尋常で、額のまんなかに白い斑《ほし》があるんだもの。それに腰つきなんかもトレゾールと侍從武官では比べものにも何にもなりはしないわ。眼つきにしたつて、應對ぶりや手練手管にしたつて、まるであんなんぢやないわ。ほんたうに大違ひなの! ねえ、〔ma《マ》 che`re《シェール》〕(いとしいかた)、あたしチェプロフ樣の何處がそんなに好いのか、さつぱり譯がわからないわ。あんな方にどうしてお孃さまはああも夢中になつていらつしやるんでせうねえ?』
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 さうともさうとも、おれだつてそいつあ少し變だと思ふぞ。なんの、チェプロフなんぞにさう易々あの方を首つたけにさせることが出來て堪るもんか。ええと、それから――
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『こんな侍從武官がお氣に召すくらゐなら、いつそ旦那さまのお書齋に坐つてゐる、あのへつぽこ官吏だつてお氣に召していい筈だと思ふわ。まあ、そのへつぽこ役人といつたらさ 〔ma《マ》 che`re《シェール》〕(いとしいかた)、そりやあ甚《ひど》い醜男《ぶをとこ》なの! まるで龜《かめのこ》が袋をかぶつたみたい……。』
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 一體そのへつぽこ役人てえなあ誰のことかな?
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『それが苗字からして變なのよ。いつもお書齋に坐つて、鵞筆《ペン》ばかり削つてるの。髮の毛がまるで乾草みたいだわ。旦那さまに時々、下男がはりに走り使ひをさせられたりしてゐるの……。』
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 おやおや、この忌々しい狆ころめが、どうやらおれのことを當てこすつてやがるのだな。何でまた、おれの髮の毛を乾草みたいだなんて吐かすのだらう?
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『ソフィーさまはこの人の顏を見るとどうしても噴き出さずにはゐられないんだつて。』
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 嘘をつけ、この胸くその惡い狆ころめが! 忌々しいことを吐かしやがつて! なあに、これといふのもみんな傍妬《おかやき》からさ。どいつの差金だか、このおれが知らないとでも言ふのかい? みんな課長の仕業《しわざ》にきまつてゐる。あいつと來たら、このおれを不倶戴天の仇として恨んでやがるんだ――だもんだから事ごとに、おれを陷れよう陷れようにかかつてゐくさるのさ。それは兎も角、まだ一通ここに手紙があるから讀んでみよう。多分これを見たら事情《ことわけ》がはつきりするかも知れん。
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『〔ma《マ》 che`re《シェール》〕(愛する友)、フィデリ樣、ずゐぶん御無沙汰したけれど許して頂戴ね。あたしこの頃すつかり有頂天になつてたのよ。何とかいふ小説家が、戀は命から二番目のものだつて言つてるの本當に至言だと思ふわ。それにねえ、今お邸の樣子がすつかり變つてしまつたの。この頃は例の侍從武官が毎日いりつぴたりなのよ。ソフィーさまつたら、あの侍從武官に首つたけなんですもの。お父さまも上々の御機嫌なのよ。お邸にグリゴーリイといつて、床《した》を掃きながら大抵いつでも獨言《ひとりごと》をいつてる下男がゐるの、それの口裏から推量したんだけれど、どうやら近いうちに御婚禮がありさうだわ――何しろ旦那さまは常々、是が非でもソフィーさまを將官か、侍從武官か、それとも大佐くらゐのところへお輿入がさせたい御意向だつたのだからさ……。』
[#ここで字下げ終わり]
 えい、勝手にしやがれ! おれはもう、とてもこんなものは讀む氣がしない……。何かといへば、やれ侍從だの、やれ將官だのと、聞きたくもないや。ちよつと好ささうなものは何から何まで、みんな侍從武官か將官の懷ろへころげこんでしまふのさ。こちとらが何かちよつぴり幸福《しあはせ》を見つけて、それを手に入れようと思ふと、すぐに侍從だの將官だのが横合から掻つぱらつてしまやがる。忌々しいつたらありやしない! おれも將官になりたい、將官になつて聟の口にありつかうなんて、そんなさもしい下心からでは更々ないが、ただ、おれが將官になつたら、さぞかしあの連中が寄つてたかつて世辭追從や繁文褥禮の限りをつくすだらうから、その醜態が見てやりたいのと、へん、吾輩は君たちなんぞに鼻汁《はな》もひつかけんぞと反りくり返つてやりたいだけのことさ。それにしても、ええ、忌々しいつたらない! そこでおれはこの馬鹿げた犬の手紙をずたずたに引き裂いてしまつた。

   十二月三日
 馬鹿な! そんなことつてあるものか。結婚などさせて堪るかい! 侍從が何だい? ただの官職に過ぎないぢやないか――手に取つて見られる代物でもなしさ。なにも侍從だからつて額にもう一つ餘分に眼玉がくつついてゐる譯でもあるまい。まさか鼻だつて金製でもあるまい。おれの鼻だつて誰の鼻だつて鼻に變りはない筈だ、侍從だからつて鼻で匂ひは嗅ぐだらうが、まさか飯は食ふまいし、鼻で嚔みはしても咳は出來まい。おれはこれまでにももう何度も、どうして人間にはかう身分に差別があるのか、ひとつ究明したいと思つたものだ。なるほど、おれは九等官だが、どういう理由《わけ》で九等官なのだらう? もしかしたらおれは全然九等官なんかぢやないかも知れん。ひよつとすると、おれは伯爵とか將官とかいふ身分でありながら、ただこんな風に九等官に見えてゐるだけかも知れない。ひよつとすると、おれは自分がどういふ者だか、自分でも知らずにゐるのかも知れん。人の傳記にもずゐぶんとさういふ例はあるもので、士族ならまだしもつまらない素町人とか、いやそれどころか、たかが水呑百姓といつた賤しい人間が、何かの彈みで素性がわかると、思ひもよらぬやんごとない貴人だとか、男爵だとか、さういつた素敵もない身分の人間だつたりすることがある……。水呑百姓でさへさうなんだもの、士族のおれからはどんな偉いものが飛び出すか分つたものぢやない。それで、もしこのおれが將官の禮裝でもつけてあの邸へやつて行くとする――そのおれの右の肩にも肩章《エポレット》、左の肩にも肩章《エポレット》、肩からは藍色の大綬章が斜《はす》に掛かつてゐようといふ、りうとした扮裝《いでたち》だつたらどうだろう? あの別嬪がその時どんな音《ね》をあげるだらうなあ? あの父親《おやぢ》は、うちの局長は、いつたい何と言ふかしらん? なかなかどうして、大變な食はせものだからなあ! あいつはマッソンなのさ、正眞正銘のマッソンにきまつてらあ。なんのかんのと、しらばくれてはゐるけれど、大將がマッソンなことは一眼でちやんと睨んでゐらあ――だつて、その證據には、挨拶のために手を差し出す時、指を二本しか出さないぢやないか。なあに、このおれだつて、直ぐにも、總督に任命されるやら、主計局長に轉補されるやら、それともどんなど偉い官職を授かるやら知れたものぢやないさ。おれは九等官でしかあり得ないなんていふ理由《いはれ》が何處にあるんだ?

   十二月五日
 今日は午前中ずつと新聞ばかり讀んで過した。西班牙では妙な事件が起つてゐる。おれにはどうもそれがよく會得《のみこ》めない。記事によれば何でも、王樣が雲がくれになつたため、王位の繼承者を選ぶことで臣下のものが難局に逢着し、ひいては一般に不穩の空氣が釀成しつつあるといふのだ。どうも奇態きはまる話さ。王樣が雲がくれになるなんて、これは一體どうしたことだらう? 何でもさる婦人貴族が王位を繼承する順序になつてゐるさうだが、女が王位に即くなんて、そんな法つてあるもんぢやない。王位には王樣が坐らなきや嘘だ。『ところが、その王樣になる者がない』といふのだ。けれど、王樣がないままでは濟まされない。一國に國王がゐないなんて法はない。王樣はゐるのだが、何處かに人知れず隱れてゐるだけの話さ。恐らく國のうちにゐるんだが、何か御一門に紛紜《いざこざ》があつてか、それとも隣りあひの強國、たとへば佛蘭西か何處かが怖くて餘儀なく姿を隱してゐるのに違ひない。それとも何か他に仔細があるのかも知れん。

   十二月八日
 よほど役所へ行かうかと思つたが、いろんなことで屈託してゐたため出そびれてしまつた。どうも西班牙の一件がおれの頭から離れない。女が王樣になるなんて法があるものか? 斷じていけない。それに第一、英吉利が默つてゐない。のみならず、これは歐羅巴全體の國際問題だから墺太利の皇帝にしろ、わが國の陛下にしろ……。いやどうも、この一件が妙に氣になつて氣になつて、一日ぢゆうまるきり仕事に手がつかなかつた。マヴラの話では、おれは食事ちゆうもひどくぼんやりしてゐたさうだ。成程さういへば、うつかり皿を二枚、床の上へおつことして、粉微塵にしてしまつたやうだ。食後、山の方へぶらぶら行つてみたが、何の得るところもなかつた。大方は寢臺の上でごろごろしながら、西班牙問題についていろいろ考へた。

   二千年 四月 四十三日
 けふは大變お目出たい日だ! 西班牙の王樣がゐたのだ。見つかつたんだ。その王樣といふのは――おれなんだ。それもけふ初めて氣がついたといふ譯さ。實際、まるで稻妻のやうに突然それに氣がついたのだ。一體
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