ただけだ――卿《そもじ》は思ひもかけぬ幸福《しあはせ》な身になれますぞ、そして邪魔だてをする惡人どもがどのやうによからぬことを企らまうとも必ず末は妹と背ぢや。――これ以上は何も言ふまいと思つて、おれはそのまま外へ飛び出してしまつた。それにしても、女といふ奴は油斷のならぬ代物だわい! おれは今、やつと女の正體を突きとめたぞ。まだ今日まで只の一人も、女がぞつこん血道をあげる相手は何ものか、はつきり見拔くだけの炯眼の士がなかつた――初めてそれを發見したのはおれだ。女が血道をあげる相手は惡魔なんだ。いや、決して冗談ぢやない。物理學者は、ああだかうだと愚にもつかぬことを鹿爪らしく書いてゐるけれど――女の惚れる相手は惡魔きりだ。そうら、あの第一列のボックスから一人の女が柄附眼鏡《ロルネット》を向けてゐるでせう。あれは大方、あの勳章をさげた肥大漢《ふとつちよ》を見てゐるのだとお考へになるでせう? ところが大違ひで、あの女は肥大漢《ふとつちよ》の後ろに立つてゐる惡魔を見てゐるのです。おや、惡魔めがあの男の燕尾服の中へ隱れをつた。ほら、あすこから指で女においでおいでをしてやがる! あれで女はみすみす、あいつの妻になつてしまふのだ。ところで、身分の高いあいつらの父親《おやぢ》どもといへば、そろひもそろつて八方美人で、宮廷への出入りを狙ふ手合だが、あれでゐて自分免許に、愛國者だの何だのと納まりかへつてゐるものの、どつこいこの愛國者先生、利權漁りに憂身をやつしてばかりござる! どうせ虚榮坊《みえばう》で背信的な先生がただから、金錢《ぜにかね》のためなら親だらうが神だらうが見境なしに賣り飛ばす! これもみんな虚榮心のさせる業だが、その虚榮心はどこから生まれるかといへば舌の根元に小さな腫物があるからで、その腫物の中にはピンの頭ほどの小蟲がゐる。それといふのも、ゴローホワヤ街に住んでゐる何とかいふ理髮師の小細工さ。そやつの名前はつい忘れて思ひ出せないが、何でもある産婆と共謀《ぐる》になつて、マホメット教を世界ぢゆうにひろめようと目論んでゐることだけは紛れもない事實で、そのお蔭で佛蘭西では國民の大半が既にマホメット教に歸依してゐるといふ評判だ。
幾日でもない 日數にはいらぬ日であつた
ネフスキイ街《とほ》りを微行で歩く。今上陛下がお通りになつた。市《まち》ぢゆうの者が帽子を脱つたのでおれも同じやうにしたけれど、おれが西班牙の王樣だといふことは氣振りにも見せなかつた。まだ宮中への參内も濟まさぬうちに、こんな大勢の人混のなかで正體を暴露しては具合が惡いと思つたからさ。おれが參内を躊躇してゐるのも、まだ今のところ西班牙式の禮裝が手許にないからだ。せめてガウンのやうなものでも手に入れることが出來たらなあ。裁縫師《したてや》に誂らへてやらうかとも思つたのだが、どいつもこいつも鈍物ばかりで、こちらの話がから分らないのだ。それに頓と商賣に不熱心で、相場なんかに陷りこんでゐたり、大方の奴が鋪道のうへでのらくらしてゐくさる。そこでおれは、拵らへてからまだ、たつた二度しか手を通したことのない、あの新らしい通常禮服をつぶして、あれでガウンを作つてやらうと、肚をきめた。しかし、あんな惡黨どもの手にかけて折角のものを臺なしにされては堪らないと思つたので、人目につかぬやうにぴつたり扉を閉めきつて、自分の手で縫ふことにした。何しろ裁ち方がすつかり異つてゐるので、おれはそれを鋏でずたずたに切りこまざいてしまつた。
日も想ひ出せない 月といふものも矢張りない
何が何だかさつぱり分らない
ガウンはすつかり下拵らへも出來て、立派に縫ひあがつた。おれがそれを着たらマヴラの奴がわつと驚ろきの聲をあげた。だが、おれはまだ參内を躊躇《ためら》つてゐる――今だに西班牙から使節がやつて來ないのだ。使節も從へないでは體裁が惡い。第一、おれの身分にいつかう威嚴が添はぬ。おれは今か今かと使節の到來を待ちあぐねてゐるのだ。
一日
使節の悠長さ加減にも呆れかへる。一體どんな故障があつて、かう遲れてるのだらう? また佛蘭西が邪魔だてをしてるのかな? 何しろ一番仲の惡い國だからなあ。郵便局まで出掛けて行つて、まだ西班牙から使節は到着してゐないかと訊いてみたが、郵便局長つたら話にならん間拔野郎で、何んにも知りやあがらない。その言ひ草がかうだ。『西班牙の使節なんてものは來てゐませんねえ。しかし手紙が出したいのなら、規定の料金で受けつけますがね。』と。馬鹿にしてやがる! 手紙がなんだい? 手紙なんて、全くくだらないものさ。手紙は藥劑師の書くもので、それも豫め酢で舌を濡《しめ》してから書かないと、顏ぢゆうに疱疹《ぶつぶつ》が出て堪つたものぢやないて。
マドリッドにて二月三十日
さ
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