て、おれは西班牙へ來てしまつた。それがまた、あんまり出し拔けだつたので、おれは夢に夢みる心持だ。けさ西班牙の使節がやつて來たので、いつしよに場所に乘り込んだが、そのまた速力がいやどうも、なみ大抵のものではなかつた。疾風迅雷のやうに走つたので、三十分ばかりの後にはもう西班牙の國境へ到着してゐた。尤も當今は歐羅巴ぢゆうに鐡道が敷設されて、汽船なども途轍もない速力で走る世の中だからなあ。それはさうと、西班牙つて實に不思議なところだ! ひよいと取つつきの部屋へ入ると、頭を毬栗坊主にした人間がうじやうじやゐるんだ。ははん、これは西班牙の大公か兵士なんだなと、おれは推察した。――でなきや、頭を剃つてゐる筈がない。總理大臣がおれの手を執つて案内したが、その扱ひが甚だ怪しからんと思つた。奴はこのおれを小つぽけな部屋へ押し込んでからに、その言ひ草がどうだらう――『さあ、そこにおとなしく坐つとるんだ。これからはフェルヂナンド王だなんて名乘ると、懲《こ》らしめのために毆《ぶ》ちのめされるぞ。』だが、それは試しに過ぎないことを知つてゐたので、おれが奴に逆らふと、總理大臣め棍棒で二度おれの背中を毆りつけをつた。あまりの痛さに危《あぶ》なく悲鳴をあげるところだつたが、いやいや、西班牙といふ國には今だに騎士道が行はれてゐるのだから、屹度これは至高の位に登る際に受ける騎士の作法に違ひないと思つて、じつと押しこらへた。一人になると、おれは政務を親裁することにした。ふと發見したことだが、支那と西班牙とはまつたく同國なのに無學なばかりに誰でもそれを別々の國のやうに思つてゐるのだ。論より證據、紙の上に西班牙と書いてみるがよい――西班牙と書いたのが、いつの間にやら支那となつてゐるから。だが、それよりも明日に迫つてゐる大事件が頭痛の種だ。明日の七時に奇怪な現象が起る――地球が月に乘つかかるのだ。これに就いては既に英吉利の有名な科學者ウエリントンも書いてゐる。まつたくの話が、おれは月の至つて軟らかで脆いことを想像すると、ほんとに心配で心配でたまらない。大抵、月は漢堡《ハンブルグ》でこしらへてゐるが、どうも出來がよくない。英吉利がそれに目をつけないのがおれには不思議でならん。跛《びつこ》の桶屋が拵らへてゐるのだが、こいつが馬鹿で、てんで月に就いての知識を辨まへてゐないらしい。材料に樹脂《やに》をひいた綱を用ひ、木油も少しはまぜるので、地球全體におそろしく惡臭が漂ひ、鼻の孔に栓をする必要が起る。そのために出來た月が至つて軟らかな球體で、とても人間には住まはれなくて、今あすこには鼻だけが住んでゐる。だから人間は自分の鼻を見ることが出來ないのだ。それといふのも鼻が月の世界へ行つてゐるからさ。地球は重い物體だから、こいつが乘つかつた日には、われわれの鼻は粉微塵に潰れてしまふと考へるとおれはもう居ても立つてもゐられなくなつたので、靴下をはき、半靴をつつかけざま、大急ぎで參議院の議事堂へ駈けつけた――警察に命じて、月に乘つからせないやうに地球を取り押へさせようと思つたからだ。議事堂には、毬栗頭の大公たちがわんさとゐたが、この連中は物の道理をよく辨まへてゐたから、おれが『皆の者よく承はれ、地球が月に乘つからうとしてゐるのぢや、月を救つてとらせようぞ!』といふと、一同は言下におれの君命を果さうとて馳せ集まり、多くの者は壁へ擧ぢのぼつて月をつかまへようとしたが、丁度その時、例の總理大臣が入つて來た。それを見ると、一同は四方八方へと逃げ散つたが、おれは王のこととて一人あとに殘つてゐると驚ろいたことに總理大臣め、おれを棍棒でひつぱたきながら、もとの部屋へと追ひこんでしまつた。西班牙ではこのとほり民風に權威があるのだ!
如月の後に改まつた同じ年の一月
今だに西班牙といふ國の正體が掴めない。民風といひ、宮廷の儀禮といひ、まるで尋常一樣のものではない。分らない、どうも分らない、何もかもがさつぱり分らない。今日なども、坊主になんかなるのは厭だといつて、おれが一生懸命に喚いたけれど、たうとう頭を剃つてしまやがつた。しかし、冷たい水を頭にぶつかけられた時の氣持は、どうも憶えがない。兎に角あんな厭な想ひをしたのは生れて初めてだ。おれは狂人《きちがひ》のやうに暴れだすところだつたが、大勢の者に抑へつけられてしまつた。まつたく奇態な風習で、何のことやらさつぱり譯が分らん。愚にもつかぬ無意味な風習さ! こんな惡風をこれまで廢《よ》させなかつた歴代の王の無分別さ加減が分らない。かれこれ思ひ合はせると、どうもおれは宗教裁判の手にひつかかつたのぢやないかと思ふ。だがさうすると、おれは總理大臣だと思つてゐたのが、さしづめ大審問官といふところだ。それにしても、王樣が宗教裁判にかけられるといふのは、どうも腑に落ちない
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