どうしてこれまで自分を九等官だなんて思つてゐられたものか了解に苦しむ。まつたくどうしてあんな狂人《きちがひ》じみた途轍もない空想が頭に浮んでゐたのだらう? まだ誰ひとり、おれを瘋癲病院へ入れようと思ひつかないうちで仕合せだつた。今や眼の前のことが何もかもはつきりした。今のおれには何でも掌《てのひら》へ載せたやうによく分る。ところが不思議なことにこれまでは眼の前のことがまるで霧にでもつつまれたやうに茫としてゐた。それといふのも人間が腦髓は頭の中にあるなどと考へてゐるからのことだが、飛んでもない勘違ひで、腦髓つてものは裏海の方角から風に乘つてやつて來るのさ。おれが先づ皮切りに、マヴラに自分の正體を打ち明けたところ、奴はそれを聞いて、このおれが西班牙の王樣だと分ると吃驚仰天して、怖れおののきながら、魂も身に添はぬ爲體《ていたらく》さ――なるほど愚昧な女のこととて、西班牙の王樣なんてまだ一度も見たことがないのだから無理もない譯だ。だが、おれは努めて奴の驚愕を鎭めて、これまでも長靴の掃除がともすれば不行屆であつたりはしたけれど、そんなことは決して咎めはせぬと言つて、どこまでもこちらの寛仁大度に信頼するやうにと慰めておいた。何にしても相手は無智蒙昧の民だから、高尚なことを言つたつて分りはしない。マヴラは西班牙の王樣といへば、どれもこれもフィリップ二世のやうな暴君ばかりだと思ひこんでゐればこそ、あんなに吃驚したのだから、おれはフィリップなどとは似ても似つかぬ仁君で、カプシン僧など一人だつて寄せつけはしないからと、よく言ひ聽かせてやつたものだ。役所へは行かなかつた。役所なんか糞くらへだ! ううん、もうその手に乘らないぞ――あんな穢ならしい書類なんか、もう寫してやるもんか!

   三十月八十六日 晝と夜の境
 けふ役所の庶務がやつて來て、もう三週間の餘もサボつてゐるから、いい加減に役所へ出たらどうだと吐かしやがる。
 だが、週間制度などといふ、くだらないものを採用した野郎が間違つてるのさ。あれは猶太の坊主が七日目に一度づつ行水をしなければならないので、猶《ジュウ》奴が發明したものだ。それは兎も角ちよつと洒落に役所へ顏を出した。課長の奴め、定めしおれがペコペコお辭儀をして詑びごとを言ふものと思つてゐたらうが、おれは平氣の平左で、別に怒つてもゐなければ、さうかといつてあまり機嫌のいい顏もしないで、奴を尻眼にかけたまま、まるで誰にも氣がつかないやうな素振りで自分の席にどつかり腰をおろした。それから一通りへぼ役人たちを見渡して肚の中で考へたものだ――『知らぬが佛だけれど、貴樣たちのあひだに坐つてゐる、このおれの身分が分つたものなら?……』さぞかし、どえらい騷ぎが持ちあがらうて! まづ第一に課長からして、常づね局長の前でやるやうにおれに向つて平身低頭するだらうなあ。そんなことを思つてゐると、拔萃をつくれと言つて何か書類を鼻の前《さき》へ突きつけやがつたけれど、おれは指も觸れなかつた。そのうちに一同があたふたとざわつき出して、局長の御出勤だといふ。へぼ役人どもはみんな、局長のお眼鏡にとまりたさが一杯で先を爭つて駈け出して行つたが、おれは一寸も席を動かなかつた。局長がおれたちの事務室を通り拔ける時も、みんなは衣紋を正したけれど、おれは平氣な顏ですましてゐたつけ! 局長が何だい? あんな奴の前で起立するなんて眞平御免さ! あんなものがどうして局長なもんか! 奴あ局長ぢやなくつて、コロップさ。ありふれた、普通《ただ》のコロップで、壜の栓になるより他には何の役にも立たない代物さ! 何より面白かつたのは、おれに署名をさせようとして書類を差しだしやあがつた時だ。奴等はおれが紙面の端つこに主任、何某と型の如く記名するものと思つてゐたらしいが――さうは問屋が卸さないや! おれは局長がいつも署名することになつてゐる肝腎かなめなところへ持つて行つて、※[#始め二重括弧、1−2−54]フェルヂナンド八世※[#終り二重括弧、1−2−55]と書きなぐつてやつたものさ。さうするとどうだらう、あたりがしいんとしづまつて、どいつもこいつも鞠躬如として鳴りをひそめてしまつたぢやないか。そこでおれはちよつと手を擧げて、『いやなに、警蹕《けいひつ》には及ばん!』と言つて、さつさと戸外《そと》へ出てしまつた。おれはその足で眞直に局長の邸へ※[#「えんにょう+囘」第4水準2−12−11]つた。局長は不在だつた。取次に出た下男め、はじめは通すまいとしたけれど、おれが一言たしなめると恐れ入つてしまつたから、その隙にずんずん化粧室へ闖入してやつた。局長の娘は姿見の前に坐つてゐたが、矢庭に跳びあがつて、おれの前で後ずさりをし始めた。だがおれは、西班牙の國王だといふことは明さないで、ただ、かう言つて聞かせ
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