はぎ》に咬みつきをつたが、紙束をおれに取りあげられてしまつたと感づくと、いやに哀れつぽい金切聲をたてたり、おべつかを使つたりしはじめたけれど、おれは構はず、『へん、お氣の毒さま、あばよ!』とばかり、一目散に駈け出してしまつた。定めしあの娘つ子はおれを狂人《きちがひ》だと思つたに違ひない。何しろ、ひどくおつ魂消てゐたやうだからなあ。家へ歸ると、何はさて措き、さつそくその手紙の吟味にとりかからうと思つた――それといふのもおれはどうも蝋燭のあかりでは字がよく讀めないからだ。ところが、マヴラの奴めが飛んでもない時に床を洗ひはじめたものさ。どうも芬蘭《フィンランド》女といふ奴は馬鹿が多くて、とかく清潔《きれい》ずきも場違ひで困りものだ。しかたがないから、散歩でもしながら一つとつくりとこの經緯《いきさつ》を考へて見ようと思つて、おれは戸外《そと》へ出た。今度といふ今度こそは、いろんな事情や、思惑や、その動機がすつかり分つて、いよいよ、すべてが明るみへ出るといふものだ。あの手紙でおれには何もかもが明瞭になるのだ。犬といふ奴はなかなか利發な動物で、政治關係のことなら何でも辨まへてゐるから、屹度あの手紙にはうちの局長のことが細大もらさず書いてあるだらう――閣下の人柄から行状まで詳細に認ためてあるに違ひない。それに何か少しはあの方のことだつて……おつと、あぶない、内證々々! 夕方になつて家へ歸つた。おほかたは寢臺でごろごろして過した。
十一月十三日
さあ、ひとつ讀んでやらう! なかなか明瞭に書いてあるが、それでも何となく書體に犬らしいところがある。ええと――
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『お懷かしいフィデリ樣! と、かうは言つても、あんたの名前があまり下種《げす》つぽいので、あたし何だかそれに馴染まれないの。何とか、もう少し好い名前がつけられなかつたものでせうかねえ? だつて、フィデリだの、ローザだのつて――俗つぽいぢやないの! でもまあ、それはそれとして、あたしとても嬉しいわ、お互ひにかうしてお手紙の往復《やりとり》をするやうになつたことがさ。』
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この手紙はなかなかきちんと書けてゐる。句切りも當を得てをれば、假名づかひだつて正確だ。あの課長などは、何處かの大學を出たなどと法螺を吹いてゐるけれど、なかなかどうして、これだけには書けやしない。ええと、それから――
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『めいめいの思想だの、感情だの、印象だのをお互ひに語りあふつてことは、世の中で何より幸福なことの一つだと、あたし思ふわ。』
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ふむ………これは獨逸語から飜譯した、或る論文の中から引用した意見だな。表題はいま憶えてゐないけれど。
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『あたし、これ經驗から言つてるのよ、尤も世の中なんて言つても、邸の門より外へは出たこともないんだけれど。だつて、あたしは先づまづ幸福な身の上といへるでしよ? お父樣からソフィーつて呼ばれていらつしやる、うちのお孃さんが、それはそれは、あたしを夢中で可愛がつて下さるのよ。』
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うへつ、畜生!……いや、何でもない、何でもない! 内證々々と!
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『お父さまだつて、よく頭を撫でたりなんかして可愛がつて下さるわ。あたし、お紅茶だつて珈琲だつて、クリームを入れたのを戴くのよ。あ、それからね、〔ma《マ》 che`re《シェール》〕(いとしいかた)、あたし、あの大きなしやぶりからしの骨なんか、ちつとも美味《おい》しいなんて思へないのに、うちのポルカンなんぞはいつもお臺所でガリガリ噛つてるの。骨で美味《おい》しいのは野禽のだけよ、それも髓をまだ誰も吸ひ取らないのでなくつちや駄目だわ。いろんなソースを混ぜあはせたのも、とても美味《おい》しいけれど、續隨子《ホルトさう》や青ものを入れたのは不味《まづ》くつてよ。でもね、何よりいけない習慣《ならはし》といへば、あの麺麭をひねりかためたのを犬に抛つてよこすことだわ。だつて食卓についてゐる、ひとかどの紳士だからつて、どうせ手ではいろんな汚ならしいものも持つでせう、その手で麺麭をこねまはしてさ、こちとらを呼びつけて、その玉を否應なしに口の中へ押しこむんですもの。吐き出すのも何だか惡いやうに思ふから――眼をつぶつて、まあ、嫌々ながら食べはするもののさ……。』
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一體これあ何だ! ちえつ、くだらない! せめて、もう少し氣のきいたことが書けさうなものだ。他の頁を讀んでみよう、何かめぼしいことが書いてあるかも知れん。
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『……あたし、邸うちの出來事を何もかもお知らせしようと思つて、とても乘氣になつてるのよ。ソフィーさまがパパつて仰つしやつてゐる旦那樣の
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