ディカーニカ近郷夜話 前篇
VECHERA NA HUTORE BLIZ DIKANIKI
紛失した国書(×××寺の役僧が語つた実話)
PROPAVSHAYA GRAMOTA
ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli
平井肇訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)呪禁《まじな》つて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人|群《だか》り

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]

*:訳注記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)*阿房《ドゥラチキー》
−−

 ぢやあ、もつとわしの祖父の話を聴かせろと仰つしやるんで?――よろしいとも、お伽になることなら、なんの、否むどころではありませんよ。ああ、何ごとも昔のこと、昔のこと! 遠い遠い、年代や月日のほども聢とはわかりかねる大昔にこの世にあつた話を聴く時の、嬉しさ娯しさといつたら! ましてやそれが、祖父とか曾祖父といつた自分の身内の者の登場してくる話ででもあらうものなら、それこそ――自分が曾祖父の魂のなかへ潜りこむか、それとも曾祖父の霊が自分の中へ忍び入るかして、まるで自分自身に経験したことのやうな思ひがされるものぢやて。それが嘘だつたら、大殉教者ワルワーラ尼の讃仰歌を唱へるとき、わしが窒息してしまふやうに手を振つて呪禁《まじな》つて下すつてもよい……。いや、わしには何より娘つ子や新造が苦手なんでしてな、あの手合に見つかつたが最期、『フォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ! フォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ! ようつてば、なんか怖いお話をして下さいつたら? ようつてば! ようつてば!……』つてんで、ねだること、ねだること……。決して聴かせるのを吝むわけではないが、晩に寝床へ入つてからあの連中がいつたいどんなことになるかを考へて頂きたい。どれもこれも蒲団の下でまるで瘧《おこり》でもわづらつてをるかのやうにガタガタ震へて、まだその上に、自分の毛皮外套のなかへ頭を突つこみかねないことを、ちやんとわしは知つてゐるのぢや。鼠が壺をバリバリ引つ掻くとか、自身で火掻棒につまづくとかすると――さあ大変だ! 魂は踵のなかへ飛びこんでしまふのぢや。ところが、あくる日になると、もうけろりとして、又してもうるさく附き纏つて来る。そこでまた改めて何か怖ろしい話をして聴かせるより他に手はないといふことになるのぢや。それは扨て、あなた方にはどんな話をお聴かせしたものかな? どうも、おいそれとは頭へ浮かんで来ませんぢやて……。おお、さうぢや、今は亡きわしの祖父が妖女《ウェーヂマ》と※[#始め二重括弧、1−2−54]*阿房《ドゥラチキー》※[#終わり二重括弧、1−2−55]の勝負をやらかした話を一つ聴かせませう。ただし、前もつてお断わりしておきますが、どうか、中途で話の腰を折らないやうにお願ひいたしたい。でないと、とんでもない不味《まづ》いものが出来あがつてしまひますからな。さて、亡きわしの祖父は、その頃の普通《なみ》の哥薩克とは、てんで異《ちが》つてをりました。彼はスラブ語の綴りから、正教会用語の略語標の置き方まで、ちやんと心得てゐたものぢや。祭日に使徒行伝でも読ませようものなら、今どきのそんじよそこいらの祭司の息子などは裸足で逃げ出してしまふくらゐ。御承知の通りその頃といへば、*バトゥーリンぢゆうから読み書きの出来る手合をすつかり狩り集めて来たところで、帽子でと言ひたいところだが、なんの、片手で残らず掬ひとつてしまふことが出来たくらゐなんでな。それだから、祖父に出あふと誰彼の別なく慇懃に挨拶をしたのも至極尤もな話ぢやて。
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阿房《ドゥールニャ》 『馬鹿《ドゥラチキー》』ともいふ、骨牌戯の一種。
バトゥーリン チェルニゴフ県コノトープ郡下の小都会で、往時、総帥《ゲトマン》の居住したところ。
[#ここで字下げ終わり]
 さて或る時のこと、*大総帥《ゲトマン》が何事か国書をもつて女帝の闕下へ奏上しようと思ひ立つたのぢや。そこで当時の聯隊書記で――さあ困つたぞ、なんとかいふ名前ぢやつたて……※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]スクリャークでもなし、モトゥーゾチカでもなし、ゴロプツェクでもなし……なんでも、そのしちむつかしい名前は、はなから変てこな音ではじまつてゐたことだけは知つてをるが――その聯隊書記が祖父を呼びつけて、大総帥から女帝陛下への国書捧呈の使者として、彼が任命されたことを伝達
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