したのぢや。祖父は元来、仕度に手間どることが大嫌ひぢやつたから、早速その上書を帽子の裏へ縫ひこんで、馬を曳つぱり出すと、女房とそれから、祖父自身の呼び方に従へば、二匹の仔豚――その中の一匹がかくいふやつがれの生みの親父であつた筈なのぢやが――に接吻しておいて、まるで五十人からの若者が往来の真中で*九柱戯《カーシャ》でもおつぱじめたかと思はれるやうな、おつそろしい土けぶりを蹴立てて出発したものぢや。で、翌る朝の、まだ四番鶏も唄はぬ未明に、祖父はもう*コノトープへ差しかかつてをつた。ちやうどその時には定期市《ヤールマルカ》が立つてゐて、往来といふ往来には目も眩むほど人|群《だか》りがしてゐたが、しかしまだ早朝のこととて、何れも地べたに寝はだかつて夢路を辿つてゐた。一匹の牝牛のそばには鷽《うそ》のやうに真赤な鼻の、放埒な若者が寝そべつてゐた。そのむかうには、磁石や、藍玉や、散弾や、輪麺麭《ブーブリキ》といつた品々を持つた女商人がグウグウ鼾をかいてゐた。馬車の下にはジプシイが横たはつてをり、魚を積んだ車のうへには車力が寝てゐた。帯や手套《てぶくろ》を持つた髭もぢやの大露西亜人が道の真中に両脚を投げ出してゐた……。どれもこれも定期市《ヤールマルカ》にはつきものの賤しい小商人どもばかりぢや。祖父はちよつと立ちどまつて、しげしげと眺めたものぢや。さうかうするうちに、天幕の中がおひおひざわつきだしてな、猶太人の女どもが水筒をガチャガチャいはせはじめ、そこここから煙の輪がたちのぼつて、温たかい揚饅頭の匂ひが野営ぢゆうに漂ひ流れた。祖父はふと、燧鉄《うちがね》も煙草も用意をせずに出かけて来たことを思ひ出して、市場の中をぶらぶら歩き出した。ところが、ものの二十歩も進んだかと思ふと、ばつたりザポロージェ人に出会つた。放埒な遊び人であることはその顔を見れば一目で分る! 燃えるやうな緋の寛袴《シャロワールイ》に*ジュパーンをまとひ、派手な花模様の帯をしめて、腰には長劔《サーベル》と、踵までもとどく銅の鎖の先につけた煙管《パイプ》を吊つてゐる――てつきり、ザポロージェ人なのぢや! ザポロージェ人といへば、実に素晴らしいものでな! 立ちあがつてシャンと躯《からだ》を伸ばすと、雄々しい口髭を捻つて、靴の踵鉄《そこがね》の音も勇ましく踊りだしたものぢや! そのまた踊り方といつたら、両脚がまるで、女の手に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]される紡錘《つむ》そつくりで、旋風のやうな迅さでバンドゥーラの絃《いと》を掻き鳴らすかと思ふと、直ぐさまその手を腰につがへて、しやがみ踊りに移る、歌をうたふ――心もそぞろに浮き立つばかりぢや……ところが今ではもう時勢が変つて、さうしたザポロージェ人の姿も滅多には見られなくなつたが、それはさて、偶然に落ち合つた二人は、一と言二た言ことばを交はしただけで、もう十年の知己のやうに親しくなつてしまつたのぢや。次ぎつぎと矢鱈に話がはずんだものだから、祖父はすつかり自分の旅の用向きも忘れてしまつてな、二人は早速、大精進期前の婚礼そこのけの、飲めや唄への大酒宴をおつぱじめたものぢや。だが、たうとう終ひには、壺を叩きわつたり、人だかりの中へ銭《ぜに》をばら撒いたりすることにも、退屈をするのは当然で、それに定期市《ヤールマルカ》がいつまで立つてゐるものでもなし。そこで、この新らしい友達同士はさきざき別れ別れになることを惜んで、道中を共にすることにしたのぢや。彼等が相携へて野中の道にさしかかつたのは、もう遠に夕暮ちかい頃だつた。陽《ひ》は沈んで、その代り空のところどころに赤味を帯びた夕映《ゆふやけ》の条《しま》が輝やいてゐた。野づらには、ちやうど眉の黒い粋《いき》な新造が著る晴著の下着《プラフタ》の縞柄みたいに、畠がつらなつてゐた。さて、件《くだん》のザポロージェ人だが、これが恐ろしく口軽に喋りまくるので、祖父と、それからもうひとり同行に加はつてゐた呑み仲間とは、もしやこの男には悪魔が乗りうつつてゐるのではないかしらと怪しんだくらゐだつた。いつたい、どこで修業して来たものか、その話があまりにも珍妙なため、祖父は何度となく、可笑しさに腸《はらわた》のよれるのを、脇腹を押へてこらへなければならなかつた。だが、先へ進むに従つて野原がだんだん暗くなると、それにつれて、この達者な饒舌家のはなしが、ひどく支離滅裂になつて来た。たうとうしまひには、すつかり口を噤んでしまつて、このわれわれの話し手は、ほんの些細な物音にも、妙にビクビクするやうになつた。
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総帥《ゲトマン》 小露西亜カザック軍の最高の首領で、カザックの中から選ばれてその任に就いたもの。総帥選挙制は、一五九〇年に始まり、一七六四年にエカテリーナ二世に依つ
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