ツク》で、彼が前《さき》に打つたのは六ではなくて后牌《クヰーン》だつたのだ。
「ええ、なるほどおれは馬鹿ぢやつたわい! 切札の王牌《キング》! どうぢや! 取つたか? 猫の後裔《すゑ》め! |A牌《ポイント》はいらんか? |A牌《ポイント》! 兵牌《ジャツク》! ……」
物凄い雷霆が鳴りはためいた。妖女《ウェーヂマ》はぢだんだ踏んだ。すると、どこからともなく、まともに祖父の顔をめがけて帽子が飛んで来た。
「いんにや、これだけぢやあ足りないぞ!」と、俄かに活気づいた祖父は、帽子をかぶりながら、喚いた。「おれの駿馬を即刻この場へ出しをればよし、さもなければおれは、たとへこの穢らはしい場所で雷に撃たれやうとどうしようと、汝《うぬ》たちに対つてあらたかな十字架で十字を切らずには措かぬぞ!」
そして今にも彼が手をあげようとした時、不意にすさまじい物音がして、祖父の面前へ骸骨の馬が現はれた。
「そら、これがお前さんの馬だよ!」
それを見ると、哀れな祖父は、たわいない稚な子のやうに、おいおいと声をあげて泣き出した。古馴染の愛馬に対する憐愍の情に堪へなかつたのぢや!『どんな馬でも一頭、手前たちの巣窟《あな》から選り出してくれえ!』悪魔が長い鞭を一と振りすると、電光石火の早技《はやわざ》で一頭の馬が祖父を背に乗せてパッと跳ねあがつた。同時に祖父は飛鳥のやうに上空へと舞ひあがつた。
だが、途中でその馬が、制する声も手綱さばきも聴かばこそ、崩穴《がけ》や沼地のうへを飛び越え跳ね越えする時には、祖父は生きた心地もなかつたといふ。到るところ、話に聞いただけでも、ぞつとするやうな難所ばかりを通つた。ふと、足もとを見ると、更に驚ろいた。そこは絶壁だ! 怖ろしい懸崖だ! 然も魔性の生物は一向お構ひなしに、まともに飛び下りるのだ。祖父はしつかり身を支へようとしたが、間にあはなかつた。彼のからだは木の株や土くれの上を翻筋斗《もんどり》うつて、まつさかさまに断崖を転げ落ちて行つた。そして谷底に達すると共に、いやといふほど地面へ叩きつけられたため、祖父はハタと息の根が停つてしまつたやうに思つた。少くともその刹那、自分がいつたいどうなつたのか、まるで記憶《おぼえ》がなかつたといふ。やうやく正気に返つてあたりを見まはした時には、もう夜が明けはなれてをり、あたりの様子にどうやら見憶えがあるやうに思つたのも道理、祖父は他ならぬ我が家の屋の棟に投げ出されてゐたのぢや。
地面へ降り立つと、祖父は十字を切つた。なんといふ悪魔の所業ぢやらう! 飛んでもない、なんといふ不思議な目に遭つたことぢやらう! 両の手を見れば、すつかり血だらけ、水を張つた桶を覗いて見れば、顔も同じやうに血だらけなのぢや。子供たちを吃驚させるでもないと思つて、丁寧に顔や手を洗つて、祖父はこつそり家のなかへ入つていつたが、見ると、こちらへ背を向けて後ずさりをしながら子供たちが、怖ろしさうにむかふを指さして『あれ! あれ! お母《つか》さんが、きちがひみたいに踊つてるよ!』といふ。なるほど、見れば、麻梳《あさこき》を前にして、紡錘《つむ》を握つた女房が、ぼうつとして腰掛に坐つたまま、踊つてをるのぢや。祖父はそつとその手を掴んで、妻を揺りさました。『これ、今帰つたぞ! お前どうかしやせんのかい?』祖父のつれあひは長いあひだ、眼を瞠つたまま、きよとんとしてゐたが、やつと良人の姿に気がつくと、煖炉《ペチカ》が家のなかぢゆうを歩きまはつて鋤や壺や盥を戸外《そと》へ追ひ出しただの……なんだのと、さつぱり辻褄のあはぬ夢を見てゐたのだと話した。『なあに、』と、祖父が言つた。『お前は夢に見ただけぢやが、おらは現つで酷い目に会つたわい。一度この家《うち》の祓ひをせにやなるまいが、今は愚図々々しちやゐられんのぢや。』さう言つて、祖父はちよつと休んだだけで、馬の都合をつけると、今度こそ夜を日についで、決して道草などは食はずに、目的地へと直行して、国書を親しく女帝の闕下に捧呈したのぢや。宮中で目撃した様々の奇らしい事柄は、その後久しいあひだ、祖父の語り草となつた。彼が参内した御所の棟の高かつたことといへば、普通の家を十《とを》も上へ積みあげても、まだ足りないほどだつたこと、御座所はここかとうかがつたが違つてゐる、次ぎの間かと思つたがそこでもない、三番目も四番目もまださうでなかつたが、やつと五番目の御間へとほると、金色燦然たる宝冠を戴き、真新《まつさら》な鼠色の長上衣《スヰートカ》に、赤い長靴を履かれた女帝が、御座所で黄金いろの煮団子《ガルーシュカ》を召しあがつておいでになつたこと、女帝が侍臣に命じて帽子に入るだけの*青紙幣《シーニッツア》を彼につかはされたこと等々……枚挙に暇もないくらゐ! だが、自分が悪魔を相手に演じた、くだん
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