を切れ!」と村長は、まさかの時には逃げ延びられる安全な場所を捜すやうに、うしろを見まはしながら言つた。
 村長の義妹は十字を切つた。
「はあて、これは義妹《いもうと》に違ひないわい!」
「いつたいまた、どうして留置場などへ来なすつただね、お前《めえ》さんは?」
 そこで村長の義妹はしくしく涕きながら、往来で若者たちに無理やり捉まへられて、抵抗はしてみたけれど、無体にもこの小屋の窓から投げこまれて、窓に鎧扉を釘づけにされてしまつた顛末を話した。助役がちらと見ると、なるほど大きい鎧扉が蝶番から引つ剥《ぺ》がされて、うへの桁に釘づけにしてある。
「ふん、立派なことだよ、この一つ目入道つたら!」と、女は村長の方へ詰めよりながら、喚きたてた。村長はたじたじと後《あと》ずさりをしながらも、じつとその独眼を見はつて女を眺めつづけた。「お前さんの思惑はちやんと分つてゐるよ。お前さんはあたしがゐては気儘に娘つ子の尻を追ひまはしたり、その白髪頭でこつそり馬鹿な真似をすることが出来ないものだから、をりがあれば、わたしを厄介払ひにしようしようと思つてゐたんだろ。ふん、お前さんが今夜、ハンナと何を話してゐたか、あたしが知らないとでも思つてるのかい? ええ、ええ、あたしや何もかも知つてるんだよ。あたしをペテンに懸けるのあ、お前さんみたいな頓馬でなくつたつて、ちよつくら難かしいんだからね。あたしやよくよく我慢をしてゐるんだけれども、後になつて焦《じ》れなさんなよ……。」
 これだけ言ふと、女は拳を固めて打ちふりながら、丸太のやうに突つ立つてゐる村長を尻目にかけて、すばやくその場を立ち去つた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]いんにや、これあてつきり悪魔のいたづらぢや。※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう考へながら、村長はやけに脳天をかきむしつた。
「捉まへましたよ!」と、ちやうどそこへやつて来た村役人どもが叫んだ。
「どいつを捉まへたんだ?」と村長が訊ねた。
「裏がへしの皮外套《トゥループ》を著た野郎でさ。」
「連れて来い!」村長はかう呶鳴つて、そこへ引つたてられて来た捕虜の手を掴んだが、「貴様たちやあ気でも狂つたのか? これあ、酔つぱらひのカレーニクぢやねえか!」
「ちえつ、忌々しい! たしかにあつしらの手で捉まへたのですがねえ、村長さん!」と村役人どもが答へた。「あん畜生ども、路地の奥に一と塊りになつて、踊つたり、人の袖を曳つぱつたり、舌を出したり、持ち物を引つたくつたりしやあがるんですよ……。へん、勝手にしやがれだ!……どうして野郎の代りにこんな鴉を掴まされたものか、とんと合点がゆかねえや!」
「このわしの権力と、全村民の権力をもつて命令するのぢや。」と、村長が言つた。「その盗賊めを即刻、逮捕しろ、また往来をうろつく奴らも残らず、詮議のためにわしのところへ拘引するのぢやぞ!……」
「どうか、はあ、村長さま!」と村役人のうちの二三が平身低頭しながら歎願した。「あなたがあいつらの顔を、ひと目でも御覧なされたらなあ、ほんとに生まれてこの方、洗礼を受けてこの方、あんな気味の悪い顔は見たことがありましねえだよ。今に飛んでもねえことになるめえものでもありませんよ、村長さま。あれを見ちやあ、女どもでなくつても一生おびえが癒らねえくらゐ、堅気な人々を嚇かしをりますんで。」
「それほど怯えたけれあ、このわしが、怯えさせて呉れようか! 貴様たちやあ、どうしたつちふのぢや? 命令に従はんちふのか? 貴様たちやあ、奴等の味方をするつてえのか? 謀叛人になつたちふのか? どうしたちふんだ?……さあ、どうしたといふんだ? 貴様たちも……悪事を働らかうといふのか!……貴様たちも……貴様たちも……わしは代官に告発するぞ! 即刻だ、いいか、即刻だぞ! さあ駈けて行け、鳥のやうに飛んで行け! わしは貴様たちを……。ええつ、貴様たちあ、このわしに……。」
 一同は残らず駈け去つた。

     五 水死女

 なんの不安もなく、また自分に追手がかかつてゐることなどは、てんで気にもかけず、あの狼藉のそもそもの発頭人は、くだんの古い館《やかた》と池の方角へ悠々たるあしどりで近づいて行つた。それがレヴコーであることは改めて説明するまでもあるまい。彼は著てゐる黒い皮外套《トゥループ》を前はだけにして、帽子は手に持つてゐた。汗がたらたらと玉をなして流れてゐた。楓の林は荘重に陰欝に黝み、月光を浴びてそそり立つた梢だけが細かい銀粉でも振りかけられたやうに見えてゐる。じつと動かぬ池は、疲れた歩行者に爽々しい息吹をおくり、彼をその岸に憩はせた。すべてが森閑としてゐる。森の奥深い茂みのなかで一羽の小夜鳴鳥《ナイチンゲール》が啼いてゐるだけである。打ち克ちがたい睡魔がやがて彼の瞳をとざしはじめ、疲れきつ
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