た手足は、今にも知覚を失つて、ぐんなり弛《たる》みさうになり、頭が前へこくりと落ちる……。※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、こいつは眠入《ねい》つてしまひさうだぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう言つて、彼はしやんと立ちあがると、やけに眼をこすつた。彼はあたりを見まはした。夜が彼の眼にひときは荘麗なものに映つた。一種不可思議な、うつとりさせられるやうな輝やきが、月の光りに加はつた。彼はこんな光景をこれまで一度も見たことがなかつた。銀いろの靄があたりにたちこめてゐた。花をつけた林檎の樹や、夜ひらく草花の匂ひが地上に隈なく充ち溢れてゐた。彼はおどろきの眼を見張つて、動かぬ池の水を眺めた――さかさまに影をうつした古い地主|館《やかた》は、水のなかにくつきりと、ある明快荘重な趣きを現はしてゐた。陰気な鎧扉ではなしに、陽気な硝子窓や戸口が顔を覗けてゐた。清らかな窓硝子ごしにピカピカと金色のいろがきらめいた。と、あたかも窓の一つが開いたやうな気配がした。じつと息を殺して、身動きもせずに池を見つめてゐると、いつか彼はその水底へ引きこまれてしまつたやうな想ひがする。と見れば、白い臂《ひぢ》が窓に現はれて、ついで愛くるしい顔がのぞき、生々とした二つの眼を栗色の髪の波だつあひだから静かに輝やかせながら、臂杖をついた。見ると彼女は微かに首を振り、手拍子を取りながら微笑んでゐる……。彼の胸は不意に鼓動しはじめた……。水が顫へだした。そして窓は再びとざされた。静かに彼は池を離れて館《やかた》に眼を移した。と、陰気な鎧扉があけはなたれ、窓硝子は月光をうけて輝やいてゐる。※[#始め二重括弧、1−2−54]人の言ふことは信用《あて》にならぬものだ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と彼は心のうちで思つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]家は新らしいし、塗料《いろ》だつて、まるでけふ塗つたばかりのやうに艶々してゐるぢやないか。ここには誰か住んでゐるんだよ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]そこで彼は無言のまま、傍ら近く歩みよつて見たが、家のなかはひつそり閑としてゐる。素晴らしい小夜鳴鳥《ナイチンゲール》の唄がはげしく、響き高く、相呼応してわきおこり、それが疲れと、ものうさに声をひそめるかと思ふと、螽※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]《きりぎりす》の翅を擦る音や、鏡のやうな広い水面を滑らかな嘴でうつ水禽の啼き声が聞えてくる。レヴコーの胸には、ある甘い静けさと平安が感じられた。彼はバンドゥーラの調子をあはせると、それを奏でながら歌ひ出した。
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月々、お月さん!
夕焼さん!
お前の照らす地の上にや
綺麗な娘がゐるぞいな!
[#ここで字下げ終わり]
窓が静かにあいた。そして、さつき池の水に映つたのと同じ顔がそこから覗いて、じつと注意ぶかく歌声に聴き入る。長い睫毛《まつげ》がなかば彼女の眼を翳してゐる。その全身は布のやうに、月の光りのやうに蒼白いが、なんとあでやかに美しいことだらう! 女がほほゑんだ!……レヴコーはぶるつと顫へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]唄つて下さいな、若い哥薩克さん、何か歌をひとつ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼女は一方へ頭べをかしげて、濃い睫毛《まつげ》をすつかり伏せて、小声で囁やいた。
「どんな歌を唄ひませうね、美しいお嬢様《パンノチカ》?」
涙の玉がその蒼白い顔をつたつて、ほろほろと流れおちた。※[#始め二重括弧、1−2−54]若衆さん、※[#終わり二重括弧、1−2−55]と彼女は言つた。その声には何か名状しがたい感動的な響きがこもつてゐた。※[#始め二重括弧、1−2−54]若衆さん、あたしの継母《はは》を見つけて頂戴な! あたし、あなたになんだつて吝まずに差しあげますわ。きつと、お礼をしますわ。どつさり、いろんな立派なものをお礼に差しあげますわ! あたし、絹糸で刺繍《ぬひ》をした袖緊《そでじめ》や、珊瑚や、頸飾をもつてますのよ。宝石を鏤めた帯をあなたにあげませうね。金貨もありますわ……。若衆さん、あたしの継母《はは》を捜して頂戴な! あたしの継母《はは》は、怖ろしい妖女《ウェーヂマ》でしたの。あの女《ひと》のために、あたし娑婆では安らかな思ひをすることが出来ませんでしたの。あの女《ひと》はあたしを卑しい端女《はしため》のやうにおひ使ひましたのよ。この顔を見て頂戴、あのひとが悪魔の力であたしの顔の色ざしを奪ひ取つてしまひましたの。あたしの頸筋を見て頂戴、あのひとの鉄のやうな爪でひつかかれた青|紫斑《あざ》が洗つても洗つても消えないの! あたしの白い足を見て頂戴、あたしは絨毯の上でないばかりか、焼石のうへや、濡れた土や、荊棘《いばら》の道を、ひたむきに歩きまはつたの!
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