かれなしに人の顔さへ見ればきまつて、それを見わけてくれればよし、さもなければ水の中へ曳きずりこむからと言つて嚇すのださうだよ。老人《としより》たちが語りつたへてゐる話といふのは、ざつとこのとほりだよ、ハーリャ!……今あすこを持つてゐる旦那は、あの敷地へ酒倉を建てようともくろんで、わざわざそのために酒男がこちらへ来てゐるんだ……。おや、話声がして来たよ。みんなが歌をおしまひにして帰つて来たんだな。では、さやうなら、ハーリャ! 静かにお寝み、そして、あんな女房《かみさん》連の作りばなしなんか気に懸けるんぢやないよ。」
さう言ふと彼は、娘をしかと抱きしめて、接吻をしておいて立ち去つた。
「さやうなら、レヴコー!」ハンナは、もの思はしげに暗い森の方を見つめながら言つた。
大きい、火のやうな月が、この時、おごそかに地平線のうしろから顔をのぞけた。まだ、した半分は地平にかくれてゐるが、もう下界は隈なく、一種荘厳な光輝に満たされた。池の水の面はキラキラと揺めいた。木立の影が小暗い青草のうへにくつきりと描きだされた。
「おやすみ、ハンナ!」さういふ声がうしろで聞えると同時に、彼女は接吻されてゐた。
「あら、また戻つていらして?」さう言つて彼女は振りかへつたが、見も知らぬ若者を眼の前に見ると、咄嗟に脇へ身をかはした。
「おやすみ、ハンナ!」またしてもさういふ声がして、再び彼女の頬を誰かが接吻した。
「まあ嫌だ、こつちにもゐたわ!」と、彼女は腹立しげに叫んだ。
「おやすみ、可愛らしいハンナ!」
「あら、まあだゐるんだわ!」
「おやすみ! おやすみ! おやすみ、ハンナ!」さういふ声といつしよに、四方八方から接吻の雨が彼女のうへに降りそそがれた。
「まあ、ほんとに、この人たちつたら、一聯隊もゐるんだわ!」彼女は、我れ勝ちに自分のからだへ抱きつかうとする若者たちの群れから身をすりぬけながら、叫んだ。「なんて性こりもなく接吻ばかりする人たちだらう! ほんとに、うつかり往来へも出られやしないわ!」
さういふ言葉についで扉はぴつたり閉され、ギーつといふ音がして、鉄の閂が挿されたらしかつた。
二 村長
諸君は、ウクライナの夜を知つておいでだらうか? いやいや、ウクライナの夜は御存じあるまい! まあ、一度は見ておいて頂きたい。日は中天にかかり、宏大無辺の穹窿はいやがうへにも果しな
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