いふ、毛むくじやらな無数の手がさしのばされた。そして彼のうしろでは何者かがあちこちと駈けまはつてゐるらしい気配がする。彼は眼をつぶつて、その茎をむしり取つたが、首尾よくその花は彼の手に入つた。あたりが急にしいんと静まりかへつた。すると、木の切り株のうへに坐つて、まるで死人のやうに色蒼ざめたバサウリュークの姿が現はれた。彼は指いつぽん動かさなかつた。両の眼は何ものか、ただ彼にだけ見えるらしいものにむかつてじつと凝らされてゐた。口は半ばほころびてゐたが、なんの応《いら》へもない。あたりには蠅の羽音ひとつ聞えぬ。いやはや物凄いのなんのといつたら!……ところがその時、さつと一陣の風が起つて、ペトゥローは肚の底からぞうつとした。そして、草がさやさやとそよぎ出して、さながら花が互ひに銀鈴を振るやうな細い細い声でささやきはじめたやうに思はれると、樹々は怒号するやうな物凄い音をたてて鳴りはためいた……。と、バサウリュークの顔は急に生気を帯びて、その両眼がぎらりと光つた。『やつと鬼婆《ヤガ》めが帰りをつたな!』さう彼は、歯の隙間からつぶやいた。『よいかペトゥロー、今すぐにお主の前へ凄い別嬪が姿を見せるから、そいつの※[#「口+云」、第3水準1−14−87]ひつけどほりにするのぢやぞ、さもないと、取りかへしのつかぬことになるのぢや!』さう言つて彼が、節くれだつた木の杖で荊棘《いばら》のしげみを押し分けると、二人の面前には、昔噺にあるとほりの*鶏の脚で立つた小舎が現はれた。バサウリュークが拳をあげてその戸を叩くと、壁がゆらゆらと揺めいた。そして大きな黒い犬が一匹飛びだしたかと思ふと、ぎやつと叫びざま、猫の形に変つて、二人の方へまともに躍りかかつて来た。『おいおい、腹を立てなさんなよ、鬼婆《ばあ》さん!』さう言つてからバサウリュークは、堅気な人間にはとても聞きずてにすることの出来ないやうな、いかがはしい言葉をつけ足した。すると、今度は猫ではなくて、まるで焼林檎のやうに皺くちやな顔をして、全身が弓のやうに曲つた老婆の姿にかはつた。その鼻と頤とが、ちやうどあの胡桃を割る鋏子《やつとこ》のやうな恰好に向ひあつてゐた。※[#始め二重括弧、1−2−54]大変な別嬪ぢやわい!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう思ひながら、ペトゥローは背筋にぞうつと寒けを覚えた。妖女《ウェーヂマ》は彼の手からくだん
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