荷馬車や、水車場――さうしたすべてのものが逆さまになつて、藍いろの美はしい深淵にうつつて、沈みもせずに、足を空ざまにして立つたり、歩いたりしてゐる。くだんの美人はこの絶景に見とれて、途々根気よく頬ばつてゐた向日葵《ひまはり》の種の殻を吐きだすことも打ち忘れてぼんやりと考へこんでしまつた。と、そのとき、不意に『おんや、娘つ子だよ!』といふ声が彼女の耳を驚ろかした。振りかへつて見ると、橋のうへに一群《ひとむれ》の若者がたたずんでゐて、その中でいちばん垢ぬけのしたみなりで、白い*長上衣《スヰートカ》に、鼠いろの羊毛皮《アストラハン》の帽子をかぶつた若者が、両手を腰につがへたまま傍若無人に、通り過ぎようとする一行を眺めてゐた。ゆくりなくも、その日焦のした、とはいへ愉悦に充ちあふれた顔と、こちらをじつと、見すかさうとでもしてゐさうな、燃えるやうな眼にぶつかると、さつきの声は屹度この人の声だつたなと思つて、彼女ははつと顔を伏せた。『素つ晴らしい娘つ子だぞ!』と、その白い長上衣《スヰートカ》の若者は、娘から眼もはなさずに言葉をつづけた。『彼女《あのこ》を接吻することが出来さへしたら、おれあ身代ありつ
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