にゐた頃のことなんですよ、今もまざまざと憶えてゐますが……。」
この時ふと、戸外《そと》で犬の吠える声と、門を叩く音が聞えた。ヒーヴリャは急いで駈けだして行つたが、すぐに真蒼《まつさを》な顔で引つ返して来た。
「まあ、アファナーシイ・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、大変なことになりましたよ。おほぜいの人が門を叩いてゐますの、それに確か、この家の教父《おやぢ》の声もするやうなんですの……。」
とたんに祭司の忰は肉入団子《ワレーニキ》を咽喉《のど》につまらせてしまつた……。彼の両の眼は、たつたいま幽霊のお見舞を受けたといはんばかりに、かつと剥きだしになつた。
「はやく、此処へあがつて下さい!」狼狽《うろた》へたヒーヴリャは、天井のすぐ下のところに二本の横梁《よこぎ》で支へられて、そのうへにいろんながらくた道具がいつぱい載せてある棚板を指さしながら叫んだ。
咄嗟の危急がわれらの主人公に勇気を与へた。彼ははつと我れにかへると同時にペチカの寝棚《レヂャンカ》へ飛びあがり、そこから用心しいしい棚板の上へ攀ぢのぼつた。一方ヒーヴリャは、なほも烈しく、やつきになつて扉《と》を打ちたたく音に急きたてられて、前後の弁へもなく門の方へ駈け出して行つた。
七
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さあこれが奇々怪々な話なんでな、皆の衆!
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――小露西亜喜劇より――
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市場では奇怪な事件が持ちあがつた。といふのは、何処か荷物のあひだから※[#始め二重括弧、1−2−54]赤い長上衣《スヰートカ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]が飛び出したといふ取沙汰でもちきりなのだ。輪麺麭《ブーブリキ》を売つてゐる婆さんのいふところでは、豚に化けた悪魔が、何か捜しものでもするやうに、ひつきりなしに荷馬車といふ荷馬車を片つぱしから覗きまはつてゐるのを見かけたとのことだ。この噂は忽ちのうちに、もうひつそりと鎮まつた野営の隅々にまでひろまり、その輪麺麭《ブーブリキ》売りの婆さんといへば、酒売り女の天幕とならんで屋台店を出してゐて、朝から晩まで用もないのにコクリコクリお辞儀をしたり、ふらつく足でまるで自分の甘い商売物そつくりの形を描いて歩くやうな女ではあつたけれど、人々はその話だけは信用しない方が罪悪だとすら考へた。搗てて加へて、例
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