]小麦※[#終わり二重括弧、1−2−55]といふ声が聞えた。その魔術的な一語を耳にするとともに、父親は知らず知らず、大声で話しあつてゐる二人の商人《あきんど》のそばへ、ふらふらと近よつて行つて、その方へ気をとられてしまつた彼の注意は、もはや何物を以つてしても引き戻す術がなかつた。さて、その商人どもが語りあつてゐた小麦の話といふのは、かうだ。

      三

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見ろやい、豪気な若い衆ぢやねえか? あんなのあ、まつたく珍らしいや、火酒《シウーハ》を麦酒《ブラーガ》のやうにがぶがぶやりをるぜ!
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[#地から3字上げ]――*コトゥリャレフスキイ『エニェイーダ』より――
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コトゥリャレフスキイ イワン・ペトッロー※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ(1769―1838)ゴーゴリ以前の小露西亜の代表的な作家で小露西亜文学の一時期を画せし人。
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「ぢやあお前《めえ》さんは、なんだね、おらたちの小麦がとても旨く捌けねえと思ひなさるだね?」と何処か小さな町からでもやつて来たらしい、風来の町人といつた容子の、樹脂《タール》で汚れて脂じんだ縞の寛袴《シャロワールイ》を穿いた男が、もう一人の、ところどころに補布《つぎ》の当つた青い長上衣《スヰートカ》を著た、お額《でこ》に大きな瘤のある男に向つて言つた。
「何も考へるがものあねえだよ、おいらあ、なんだて、万に一つもこちとらの小麦が、たとひ一升ぽつきりでも捌けようものなら、この木に縄をかけて、降誕祭まへに屋根にぶらさげる腸詰みてえに、首をおつ縊つて見せるだよ。」
「人を誤魔化さうつたつて駄目なことよ! それだつて、おいら達より他にやあ、からつきし持ちこんだ者あ無《ね》えでねえか。」さう、縞の寛袴《シャロワールイ》を穿いた男が反駁した。
※[#始め二重括弧、1−2−54]ふん、勝手に好きなことをほざきあつてろだ、※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、この二人の卸売商人の会話を一言半句も聞き漏さずにゐた、くだんの美女の父親は肚のなかで呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]ところが、おいらのとこにやあ十袋から持ち合せがあるだに。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
「やつぱり、なんだなあ、悪魔の手のかかつた
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